普通とか変とか嫌いとか。
自分にとっての普通とか変とかについて考えてみた。
わたしは日常的に
結構変な人とか、変わった人っていう評価を受ける。
掴みどころが無いとか、フワフワしてるとか、ユニークとか、独特とか、見えないもの見てる感じとか、何やってるかわからないとか、常識のある変人とかそんな感じ。
あとは、変態的とか、がっかり器用貧乏とか(これはちょっと違うか。)
あれこれ言われる。
そんな話を年の離れた友人たちとしていたら、
「しおさんは変とかって悪口言われてムカついたりしないの?」と聞かれた。
答えはNO。
人にとって、普通と変、または悪口の線引きは違うと思うけど、わたしにとっては変は別に悪口とは思わない。
むしろ、わたしにとっての価値基準に置いての場合
変=おもしろい
普通=つまらない
と言った価値基準になっているので、むしろ変な人は褒め言葉。なぜなら、変とか変わってる、と言われることは言った相手にとっての価値基準からズレている、私のことを少し他とは違う認識をしてくれるということだから、
その人にとって私は良くも悪くも特別な認識をされていると感じるから。
私はそれが嬉しく感じるので、私にとって褒め言葉になるのぁ。
これは多分幼い頃憧れたヒーロー的な物に起因しているんだお思う。
きっと今でも特別なものになりたいのだ。
じゃあ、わたしにとっての普通って何だろう。
日常的な意味での普通は、当たり前なこと、想像のつくこと、少し考えればわかること、刺激のないこと。
とかとか、わたしにとっての普通はそんなに面白くないこと。
だから、それを人に当てはめたとき、私にとっての「普通」はむしろ褒め言葉にはならない。
それは、「つまらない人」と言っているようなものなのだ。
価値観はは人それぞれだからこれを押し付けるなんてことはしないけれど、
年の離れた友人たちの求める「普通」というのは私には求めるものじゃない。
わたしにとっての「普通」や「変」は自分の基準で決めるものだから、わたしにとって「普通に生きる」という言葉はピンとこない言葉に感じる。
じゃあ、今度はなんで普通に違和感を感じるのか考えてみる。
普通が何かなんてのは、それこそ自分の基準だから何が正しいとかないと思うのでやっぱり自分の感覚でしかないですけど。
子どもの頃の感覚でいうと、いわゆる普通の人っていうのは
当たり前に学校に行って、働いてって感じの…てんけーてき
もっと言うと、カタガキの人。自分を肩書で話す人。
どうやら昔からこれが苦手で。
自分の職業や役割を通して話す人、
「私は教師なのでこう言う」とか「私は市役所の職員だからこう」といったように。
その向こうに自分自身が見えてこない人は苦手。
(もっとも、それもまじめに仕事としてやってくれているのだからわたしが勝手に苦手意識を持っているだけなのでむしろあちらが被害者なのだけれど。)
社会的には自己を出しすぎるというのは時にリスクになってしまうから、
社会の中でうまくやっていくには自己を出しすぎないというのも大切なんだろうと思う。
でも、わたしは、自己を見せてくれない人が信頼できない、たとえその人が周りから変人と言われていても、その人が自己を見せてくれているのなら、わたしはその人を信頼できる。
自分の個性を認められない人は嫌いじゃないけど、自分を出さない人が苦手、自分を消そうとする人もやっぱり得意ではない。
そして、自分のやっていること、自分の個性ををすっぱり消せる人は苦手。
ようは、自己が見えない人が怖くて嫌いなんだなー、って話に落ち着く。
わたしは、自分が周りの人をそう感じるように、わたしも周りの人たちにそう思っていてほしいから、不器用でも、社会的じゃなくても、わたしは自分の本心をさらけ出してこれからも生きていくんだろうな。
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