見出し画像

2020年 九月某日 東京 ベルギーレストラン


「ベルギー料理でいいですか」


Sさんから尋ねられたとき、僕はああ、はい、としかいえなかった。だって僕はベルギー料理っていうのがどんな料理かわからなかったし、それどころかベルギーって国についてすらわからなかったからね。

ヨーロッパの上のほうにある国ってことと、チョコレートで有名なことくらいしか知らなかったんだよ。そんな僕がベルギー料理でいいですかって訊かれてもああ、はいってこと以外応えられないのは君だって想像がつくだろう。他にかろうじて言えたのは、チョコレートで有名な国ですよね、ということくらいだったよ。


「そのチョコレートを食べに行きます。美味いですよ。当たり前です、ベルギーレストランですからね、他とはまるで違いますよ」


うきうきと笑いながらSさんは話してくれて、その笑顔からきっととっても美味しいチョコレートを食べることができるんだなあってわかって、ぼくもとっても嬉しくなっちゃったんだ。


お店には僕たちが一番乗りだった。
開店前にすでに店の前で待っていたからね。そうでないとすぐ席が埋まってしまって入れないなんてことがあるらしい。その日は平日で、そんな日でも満席になるようなレストランはきっと繁盛しているんだろう。


Sさんはこの店のチョコレートに虜になってしまって、もう何回も食べに来たことがあるんだって。彼は食に対してとっても詳しく、美味しい料理の話のことをよくしてくれるから、そんな彼がよく通う店に連れてもらえるなんて、僕にはとても嬉しいことだったんだよ。

お店は綺麗で心地よい内装になっていた。壁にはお酒の瓶がラベルを見せ並んで賑やかで、ベルギーについてよく知らない僕でさえ「お、ベルギーってきっとこんな楽しい国なんだろうな!」というのがわかる出来合いだ。


君がもし一緒についてきていたのならきっと「ベルギーってこういう国なんだね!」と思い「これはさぞかし美味しいものが食べられるんだろう!」と期待にわくわくすることだろう。そんな風に空間から料理を期待させるような店構えだったよ。



(1) ムール貝の白ワイン蒸し

画像1

先ほども述べた通りぼくはベルギー料理についてはてんでわからないから、何を食べるかはSさんにすべてお任せにさせてもらった。そのほうがきっと間違いなく美味しいものにありつけることができるってわかっていたからね。


Sさんについては信頼していたし、とくに舌については保証書付きみたいなものだったから安心はしていたんだ。だけれども鍋いっぱいにムール貝がぎっしりつまっているのを見ていささかびっくりしてしまった。


だって僕はこれまでムール貝というものをほとんど食べたことがなく、あるとしてもパエリアの上にちょこんとお飾りのように乗っているものをせっかくだから、と食べたくらいだったんだ。そのくらいしかムール貝について関わり合いになっていなかったから、僕の深層心理は「ムール貝は一つの料理に一つしか使用してはならないものである」なんて考えていたんだろうね。お飾りのパセリみたいなものだって。


それが見てごらん、鍋いっぱいに真黒なムール貝がぎっしりと入っているじゃないか。こんなにいっぱいムール貝を使うだなんて、お店の在庫を心配してしまうよ。


注文する前にSさんが僕に「ムール貝は食べられますか?」と訊いてくれたけれど、僕は今までムール貝の事情についてなんて全然考えたことがなかったから、大丈夫ですって気軽に答えてしまったんだ。

さあこれは大変なことになったぞ、と取り出したムール貝は想像より大きくて、僕の知っているサイズより三倍は大きかった。なめらかで頑丈そうな貝殻の中には淡い色をした身がぷっくりと、その曲面から僕は臀部を連想した。


丸ごと一口に頬張る。
僕はびっくりしてしまった。ムール貝ってこんなに美味しいものだったのかって。


かすかな弾力が歯に心地よく、噛み切ると味と歯ごたえとが音みたいに響く。なんて見事な口触りなんだろう。塩気を帯びた白ワインはささやかに旨味を引き立て、汁気たっぷりの身が口の中を潤してきた。


一口目は恐る恐るだったが、二個目、三個目と次々へと口に入れたくなっていた。噛んだ身を飲み込むときにすら喉奥に身の弾力を感じて、時折旨味で窒息しそうになる存在感なんだよ。


「美味いでしょう。これを食べるとムール貝のハードルあがりますよ」


食べ漁る僕の様子を見てSさんはしてやったり、という風に笑った。そしてその通りにムール貝は僕の中で一番おいしい貝に君臨したって訳さ。



(1―2)

画像2

このワイン蒸しは汁を残しておいて、食事の後半にリゾットにしてだしてもらった。このレストランはそんなことができるんだよ。

あれだけの量のムール貝からでたエキスを吸った白ワイン、そしてそこには玉ねぎとセロリがたっぷりと入っていて、僕はセロリとかパクチーとかの香草が大好物なんだな。そんなもので作ったリゾットが美味しくないだなんてことある訳なくて、ムール貝の旨味ってものを存分に体験できたんだ。



(2)ラザーニャ

画像3

前に述べた通り注文はSさんがしてくれたんだけれど、その中にラザーニャを聞いたときにはやった!と密かにガッツポーズをした。


それというものの、僕はランチメニューの中にラザーニャを発見して、それを見てラザーニャを食べたいなあって密かに思っていたからね。でも注文を任せるといった手前、ラザーニャが食べたいと言い出すのは気が引けてね。言えずにラザーニャへの想いを募らせていたって訳なんだ。


もちろんSさんにそのことを相談すれば、喜んで僕の提案を採用してくれることはわかっていたんだけれどね。こういう時にぼくは必要以上に遠慮しがちになってしまうんだ。

ラザーニャは想像通り、黄金に焼けたチーズを纏っていた。僕はチーズが好きなんだ。チーズ好きとはいっても最近よく見かける、これでもかとばかりにチーズをたっぷたぷに盛って、びろーんと伸びるのを見せつけるようなのは好ましくない。あれは僕に言わせれば下卑た行為だね。チーズが多くて伸びていれば美味しそうだなんてひどい勘違いだよ。品性を理解している人間はこのラザーニャみたいなチーズの量を選択するものさ。

僕がラザーニャを食べたいなあって思ったのは、メニューの中にラザーニャの文字を見て、舌先にびろびろとした触感を回想してしまったからなんだ。ラザーニャを食べるとき、誰もがあのびろびろとした生地の触感を楽しむだろう? 君だってきっとそうさ。あら美味しいですわね、なんてことをいいながらも、口の中では舌先でラザーニャを突いて、子どもの泥んこ遊びみたいなことをしている。チーズとミートソースをからませて、びろびろの生地の震えるさまを存分に楽しむんだ。


ラザーニャってきっとそういう料理なんだ。泥んこの中に裸足で入るような、ぬるぬるっとした触感を口の中で再現した、舌触りの遊び。こんなにきれいに焼けた、光を反射させる稲穂のように美しいチーズの中には、そんな内緒の楽しみが潜んでいるんだよ。



(3)ワッフルのチョコソース添え

画像4

昔、チョコレートは疲労回復効果のある薬として扱われていた、と聞いたことがある。惚れ薬の材料としても、媚薬としても使われたそうだ。


僕がそれを初めて聞いたのは小学生の頃で、そんなこと言われてもまったく理解できなかった。甘いチョコがそんな薬のようなものだったといわれてもピンとこないし、これはどう考えてもお菓子だ。疲れた時に甘いものを食べると元気の元になるけれど、それはほかの甘いものを食べても同じだし、チョコレートに特別の効果を僕は見つけることはなかった。


でもね、この店のチョコレートを口にした時にわかったんだよ。チョコレートは媚薬である、って。

このレストランのチョコレートは口にして、他のチョコレートとは余りに別で、でも間違いなくチョコレートで、驚きなんだ。なんていうのかな、チョコソースからは力強さを感じる。骨太い男性の握り拳のような、出産直前の赤子の産声のような。そんな、たくましい生命力が舌を通じて伝わり、脳みその芯がかっと熱くなった気がした。


だからいっただろう、まるでこれは媚薬なんだ。


僕はずっとこの話がしたかったんだ。チョコレートが媚薬であるという事実を、誰かに伝えたかったんだ。そしてその人にもこの店のチョコレートを食べさせて、そうだろう!?と共感したいんだ。美味しいものを美味しいと伝え合うなんて、こんなに嬉しいことってないじゃないか。

だから君はこの店のチョコレートを食べるべきだ。君と喜びを分かち合いたい。美味しいものを教えるってことは喜びを招待することだ。とびきりの紙芝居を披露するように、さあ、次の一枚はなにかな、と声を張り上げ台詞を読み上げる僕の手腕を、君はわくわく期待しながら見ているがいい。

この店に僕を招待してくれた人のように、してやったり、と僕は笑うよ。君は満足げにやられるだろう。僕は美味しいものを喜び合う共犯者を新しく迎えることになるんだ。



画像5


ベルギーレストランを楽しむコツは以上だ。ヨーロッパのどの辺にある国だとか、どんな料理が出るかとかなんて知る必要はない。ムール貝の在庫の心配もしなくてもいいよ。必要なのは美味しいものを食べたいってわくわくする心さ。


そして食べ終わったら僕と話をしようよ。ムール貝を飲み込むときののど越しとか、ラザーニャのびろびろの舌触りとか、チョコレートが媚薬であることの証明とか。


この店はそんな話ができる場所なんだよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?