口づけをかわすより愛を語ろう
先日のこと。
金曜の夕方、僕が社会の歯車として身を粉にして働いていると不意に電話が鳴った。登録外だったが、そんなお客さんザラだしとりあえず出ることにした。
営業の電話だ。ひねもす片っ端から電話をかけているのだろう。正直、僕の名前(苗字)は間違っていたし、誰から紹介を受けたのか聞いてもそれは秘密と言うし、胡散臭さに手足が生えたような奴だと思った。
まあ、その後も電話はダラダラと続いたのだけれど、やんわりとセミナーには興味がないことを伝えて通話を切った。
どんなマニュアルなのか知らないが適当千万もほどほどにすべきだ。
でも、なんだろう。この火照る感じ。
おい、嘘だろ?まさかそんなことありえるのか。
褒められて嬉しいだなんて。
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人とのコミュニケーションにおいて僕が使う手法は、専ら他人のエピソードに尽きる。どんな些細なことでも言葉の選び方次第でそこそこ面白くなるものだ。だって、日常で感じる退屈は絶望しない程度に調整されているからだ。確かに意地悪な気持ちもある。悪戯な心もある。他人を貶めて自分の株をあげようとしているんだろ、と思っている人も多いと思う。でも、本邦初公開で本当のことを言うと僕が執拗に他人のエピソードを話すのは、
きっと誰かの死への予行練習だ。
別に信じなくてもいいけど。
死人に口なしとは言うけど、これは本当に死にたくなるほどに真実だ。死してなお死にたくなるなんて死体蹴りも大概にしてほしい。
死人についてとやかく言う事を不謹慎と捉える人が一定数いる。
亡くなった人はそっとしておいてあげた方がいい、言わんとすることはわかる。葬式で遺影を見ながら泣いて、棺桶に向けて言葉を投げかけあとは胸の内で弔う。日本の様式美だ。葬式美ともいえる。
でも、僕が明日死んだとして、そんな美しい葬り方をされようものなら自殺したくなるだろう。死してなお自殺するなんてオーバーキルも休み休みにしてほしい。
僕はそんな慎ましやかな風化は望んでいない。
究極泣かなくてもいいから、飲み会かなんかで僕の話を延々にしてほしい。豆粒みたいな話から本当に面白かったことまで隈なく、時に盛りながら。慎む必要なんかない、思う存分語ってくれたらいいのだ。
実は、強くそう思うようになった理由が明確にある。
高校3年生の時、隣のクラスのS君が死んだ。白血病だった。
中高一貫校で中学1年の時から知っていたけど、彼のことは特段嫌いではなかったし、好きでもなかった。共通の趣味もなかったから遊んだこともない。
S君は自信家で我が強くて、みんなとぶつかるため避けられがちな奴だった。
そんなS君が高校2年の時に入退院を繰り返すようになって、白血病と知らされた。彼に無関心だった奴も嫌っていた奴も、今までとは別の意味で腫物に触るような扱いをした。僕はクラスが違ったから参加していないが、寄せ書きや千羽鶴も送ったらしい。
その頃僕は大学受験でバタバタしていて、学校もあまり行かず塾に通っていたのでほとんど彼の情報は後追いだった。だから、次に知ったのは彼が死んだという情報だった。
彼の死後、彼のことを誰が語ったのだろう。みんな口を噤んでいるのは忘れてしまったからか?今も毎年、mixiから「今日はS君の誕生日です!」という通知が来るのに?本当に何も言及しないことが正しいのか?葬式が終わったら何もかもなかったことになるのか?
こんなところでS君ごめん。でも、僕は今も君のことを時々思い出している。
だから僕は誰かの死の予行練習として、エピソードを語っている。その人が好きだからだ。その人が魅力的だからだ。
その誰かが死んだ時、些細な出来事を忘れないように定期的なアウトプットをしながら記憶のつぎ足しを行っている。
君たちに万全の状態で死んでもらうために。
もし、僕が何らかの理由で死んでしまったら沢山僕のことを語ってほしい。言葉で造形できるほど、エピソードで輪郭をなぞってほしい。
お酒の力ですこし言い過ぎても祟らない。そもそも死人のことを本当に悪く言う人は基本いない、死人と悪口は結構バランスが良いのだ。
でももし君が、故・僕を語ることに罪悪感があるのなら、次の二つのおまじないを最後に付けるといい。
「まあ、良い奴なんだけどね」
「俺は、好きだけどね」
終わりよければ、すべてよしなんだぜ。
2023年2月19日 自室にて、試験受かってホッとしてます、冬。
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