見出し画像

スタンプのない2つのパスポート

クローゼットにある私の大きなスーツケースには、冬物の服やパスポート、海外旅行用のプラグなどが入っている。衣替えをするために開けて、風を通した。

仕切りのポケットには、二つのパスポートが入っている。
家族が亡くなる前の年に更新した自分のパスポートと、他界した家族のパスポート。

いま持っている私のパスポートは、一度も使ったことがない。
そのパスポート用の写真を撮ったのは、確か研修の帰りで、次に海外へ行く時のために勉強をしていた。きっとすぐにまた海外へ行くから、早めに更新しておいたほうがいい。アフリカのバオバブの木や、東南アジアの托鉢を思い浮かべていた。


私が過去に持っていたパスポートには、多くの出入国スタンプといくつかのビザがあった。私がよく海外に行っていた頃は、まだ出入国のスタンプを押すことが多かった。
様々な国に行った。陸路や航路で国境を越えたこともあるので、国際空港のある都市ではなく、誰も知らないような町でスタンプをもらうと、武勇伝を語れそうな気分になる。
新しく作ったパスポートも、何度も繰り返し使うと思っていた。

ところがそのパスポートは、スーツケースにしまわれたまま、ずっと何年も閉じ込められている。
海外に行くどころの気分ではなくなってしまった。


家族が他界した後、部屋の引き出しにパスポートがあり、私がもらうことになった。
そのパスポートの存在を、他の誰も知らなかった。出入国スタンプは全く押されておらず、使った形跡はない。
パスポートの発行日を見て、その頃のことを考えると、海外に行こうとしていたなんて想像ができない。旅行だろうか。全てが嫌になって、逃げるように日本を離れようとでもしていたのか。
そのパスポートを見た夜、引き出しに戻し、その横に布団を敷いて泣きながら寝た。


私は若い頃から行きたい国に自由に旅をして、使い込んだ感じの過去のパスポートに自己満足していた。その一方で、生き続けることが耐え難いほど辛かった自分の家族が、憧れの土地へ旅する夢がかなうことなく、パスポートを一度も使わないまま苦悩し、そしてもうずっと使うことがないと思うと、胸が痛んだ。

どこへ行きたかったの?


次に海外へ行く時は、やっとスーツケースから出られる私の新しいパスポートと一緒に、亡くなった家族のパスポートも持って行こうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?