利便性を享受するということ


 緊急事態宣言が出てからというもの、ついついウーバーイーツを頻繁に頼んでしまう。以前は、何故お店まで取りに行けば食べに行けば元値で手に入るものを、わざわざ高額な手数料やら配送料やらを払って配達をお願いしなければならないのかと、至極まともな意見を持っていたのだけれど、平日の仕事に疲れ果てて這うように目覚めた土曜日の午前10時。どこかへ食べに行くのも、冷蔵庫を漁るのも億劫なそんな気分の時、スマホをポチポチと弄って家で待っていれば、飲食店が作る最高の料理が自宅で食べられる。これってどんなに高い手数料を払ってでも、自分のQOLを上げることに繋がってるよな。平日、仕事頑張ってるんだから、土日くらいウーバーを頼んで贅沢してもいいよな、とすっかり当初の崇高な思想は僕から消え果ててしまった。ウーバーは最高である。

 先日、通勤途中にラジオを聴いているとタレントのユージがこんなことを言っていた。確かソシャゲの課金についての話題だったのだけど、「一度課金してしまえば、人はその行為を正当化する理由を見つけて、どんどん沼にハマっていく」というようなニュアンスの主張だった。まったく、その通りである。人間は一度ウーバーイーツを頼むと、その利便性に目が眩み、あれほど高いと感じていた手数料やら配送料についても、「まあ、たまにはいいよね……」と甘んじて受け入れるようになってしまう。ウーバーイーツとソシャゲの課金はきっと同じだ(同じか?)。

 でも、この頃個人的には利便性を上げる行為に、それに見合う対価を払うことは、全然ありなんじゃないのかなと思う自分もいる。例えば、コンビニのレジ袋にしても、何となく世間の風潮に合わせて、エコバッグを持ち歩くようにしているけど、たった数円払えば袋詰めまでしてくれて、エコバッグを持っているか毎回心配しなくて済むようになるというのは、悪くない出費なのではないかという気がする。もちろん、制度本来の目的のエコ精神からすればけしからん考えであるけれど、そのことは一旦考えないこととして。

 そもそも、今まで我々は本来払うべき対価を払わな過ぎていたのではないのだろうか?街の蕎麦屋の出前だって、地域密着という意味での戦略(例えば常連を作るとか)からは功を奏しているのかもしれないけれど、本来追加料金も払うことなく、わざわざ家まで配達してくれるというのは普通ではないことなのだ。どんなものごとも、対価を払わずにあわよくばタダ乗りしようとしてしまうのが、人間の性なのだろうし、この辺りは自戒が必要かもしれない。

 と、いうわけでもしも利便性を享受するのであれば、ウーバーイーツに対する出費は恐らく妥当な出費なのだと僕は考えるようにしている。あとは問題があるとすれば、我々の収入水準が上がらない限りはこの手の小市民的苦悩はなくならないことであって、今日も僕は自分への言い訳を探しながら、スマホを握り締め、ウーバーイーツを頼むべきか逡巡している。

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