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漫画『セッちゃん』感想 ノンフィクションとフィクションと適応

※ネタバレあります 試し読みはこちら


セッちゃんを恋愛以外の観点から読もうと思った。なぜならば、もうセッちゃんに共感できなくなっていたからだ。


•セッちゃんとあっくんとまみのそれぞれの適応の仕方

『セッちゃん』は、暴力により変わっていく日常に対して適応能力がなく、流されてやり過ごすしかなかった男女が恋仲に落ちかける話だったような気がする。

誰とでも簡単に寝る時期はあったけど、私はあまり代わる代わる男に「抱かれる」セッちゃんに感情移入できなかった。この作品に魅力を感じるのは、政治と暴力と日常の関係と、そしてそこに没入できない主人公二人のバランスが好きだからだ。そして、緊急事態宣言下の二ヶ月において、ディストピア映画の中に生きているような非日常と戯れていた自分と重ね合わせていた。

テロやデモに興じる友人たちを見ながら、「みんなどうしてすぐに生き方を変えることができるんだろう、まるで知らされていたみたいにどうしてすぐに変わることができるんだろう」と独白するセッちゃんが世界に適応する方法はセックスのみだ。彼女は「ごめーん」とか「ありがとー」とか必要になっちゃうコミュニケーションを避けるために、お礼の代わりに男に抱かれる。

セックスをつないで日々を生きるセッちゃんの日常は他人から見たらフィクションみたいで、でもそれは本人なりの適応方法だ。常にぼーっとしていて何か食べると口についちゃうほどほわほわ、エキセントリックで掴みどころがない。おそらく、セックスなしの親しい人間関係はあっくんと妹のうたちゃんだけ。男の部屋の天井の記録をインスタにしているセッちゃんの「セ」はセックスのセである。

惹かれ合う相手であるあっくんはずっと現実感のある日常を生きてきたけれど、高校時代に発見してしまったクラスメイトの黒須さんの死体によってそれはぶっ壊される。黒須さんは入学式から学校に行っていない不登校の女の子で、ネットで知り合った男にレイプされて殺された。あっくんは、日常には非日常である「あっち側」が隣り合わせであり、いつそれが出現してくるかはわからないという感傷に浸りかけてしまう。

その非日常が溶け込んでいる薄気味悪い日常から抜け出して、安全な「こっち側」でいるために必要だったのは「彼女」だ。ノンフィクションの中にあるフィクションに自分を預けられるバカである彼女、まみである。
まみは、少女漫画のような物語に自分を仮託できる感性を持った凡庸な女の子だ。あっくんにとってまみはこっち側にいるために必要な演出の一つだった。あっくんは適応しているようでしていない。やり過ごしているだけだ。日常をこなして流している。

まみは、テロ行為によって脅かされる自分たちの日常を守ろうと、自分の今までの日常を変化させてデモをしたり大学の座り込みをしたりする。あっくんは完全に「こっち側」だと思っていたまみや周囲が変化して戸惑う。

•まみと私の共通点 デモはただの現実適応の手段

私は、コロナでのデモは参加しなかった。でも、SEALDsの時は永田町に何回か行った。

デモ中のシュプレヒコールでは、何か自分が主人公になったような気がした。
大きな物語に自分を預けるような高揚感と不気味さがあった。あっち側でもこっち側でもない、もっと一歩飛び越える感じ。私たちがこの状況を変えるんだ、という正義感に没入するのが快感だった。

あっくんに「セッちゃんと遊んでないで一緒にデモに行こうよ」というまみにとっても、私にとってもデモは政治参加の意思表示というよりはコミュニケーションと現実への適応の手段だったような気がする。共通言語なのだ。実際に私はその後もデモに行き続けることはなく、綺麗さっぱり忘れた。一緒に行っていた友達も同じだ。SEALDsメンバーが今何をしているかには詳しくないが、あれは一種のムーブメントでしかなかったような気がする。

「だってもうなにがこっち側なのかもわかんないし、今までのこっち側もなんだったのかわかんないし」というのはあっくんの台詞だが、非常事態宣言下の私の心境でもある。怖かった。非日常が溶け込んでいる日常なのか非日常なのかわからない日々が気持ち悪かったのだ。さらにそこへデモなんて追加されたらたまったもんじゃないと思った。


•セッちゃんはフィクションがノンフィクションになった世界では生きていけない

セッちゃんは、演技することがない。取り繕ったり空気を読むことがない。時勢に合わせて自分を変えるなどできない芸当だろう。

事なかれ主義の日常を手放したくないあっくんは、仲が良かった友人がテロ行為で捕まっても大してショックを受けた様子がない。あっくんならきっと武を止められたよ、というまみに対して、「そんな…漫画じゃないんだから」と笑うほどだ。

でも、悲劇的な結末を迎えるセッちゃんとは対照的に、あっくんは最後に「漫画」の世界観に順応するのだ。「仕方ないと諦めがついてしまうのは漫画の読みすぎかな」とひとりごちながら。
それが、現実世界をガン無視してセックスだけで世界にひっかかっているセッちゃんを失ってからの出来事であるということが気持ち悪い。セッちゃんはフィクションがノンフィクションになった世界にとっては異分子なのだ。


•こっち側もあっち側もフィクションになってしまった世界で

私が代わる代わる男に抱かれる時期があったのにもかかわらずセッちゃんに感情移入できないのは、非日常と無邪気に戯れることができる能力があるからだ。戯れる、というのは不謹慎な言い方だけれども楽しむ、に近い。怯え、真剣に考え、「このままじゃいけない」と意見を表明する。確かに全てが怖かったけれども、それは順応しようとした結果にすぎない。私は自分で作り出したフィクションを生きている。そしてそれはセッちゃん以外の登場人物含め皆がしていることで、進撃の巨人に出てくる台詞をかりると、「何かに酔っ払っていないと生きていけな」かったのはないかと思っている。


•『セッちゃん』の中にある性と死が意味するもの

最後に、セッちゃんの妹のうたについて。うたが下校中にツイキャスをするシーンで、視聴者のコメントに「オナ配信してー」というものがある。裏垢女子を彷彿とさせる描写である。あっくんの頭の中で、セッちゃんは死体になった黒須さんと重ね合わせられる存在であるというような場面があった。思い出してほしい、黒須さんは「入学式から学校に行っていない、ネットで知り合った男にレイプされて殺された少女」である。ここで「オナ配信」という性的なワードを散りばめるのが怖い。セッちゃんとうたと黒須さんの共通項は性と死に近いことだ。フィクションからもノンフィクションからもあぶれたものの末路は死、と言わんばかりの結末だと思ったのは勘繰りすぎではないだろう。



着地点もよくわからない文章になってしまった。あと言いたいことは希望も絶望も救いもないような淡々と進むスピード感と、生活感が漂うティッシュが好き、ということくらいだ。なんとも納得のできないようなできるような終わり方を味わって欲しい。そこにあなたの現実に対しての考え方が見えるのではないだろうか。


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