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私の怒りと自分語りについて
昨今続いてのnote運営会社炎上事件を踏まえ、ここに記事を上げるのは躊躇われる。しかし現在自分のサイトを作っている最中で、まだそれが出来上がっていない。早急に自分のための思考のメモとして書きたいことがあったため、仕方なくnoteを選択している。久々、自分語りのための自分語りでいささか恥ずかしい。
なんでライターにこだわっているのかわからない
一人暮らしをし、自分で生活するようになって、私もなりたいものや成し遂げたいことがなくても生きていけるんだ、という恐ろしいことに気づいた。
実家にいた私はライターを目指していたし、実際情熱に燃えていた。ほとんどの家事は親に任せきりのニートだったくせに、大学を卒業後普通に就職していった友達を内心軽蔑し、安定とか私には無縁だと思っていた。私には「夢」があるから。ルーチンワークの中に埋もれる生活なんて私には似合わないと思っていた。繰り返す日々が怖かった。
何がしたいのかわからなくても人は生きていけるってことにこの年になってやっと気付いたんだけどなんで誰も教えてくれなかったのかなと責任転嫁している、流れるように就職してった友人の方がよっぽど賢かったし彼らに自分の意志がないように見えたのは私の世界観の中だけだったのに
— 滝薫 (@Hannahkuku0819) October 3, 2020
でもそんなにみんな考えてない、日々を大切にしかし消費的に生きてるだけだよって軽蔑の囁きは消えないんだよなあと思いつつ、それも今の引き伸ばされたモラトリアムで肩書不明の状態から来る鬱屈でしかないのもわかってるんだよな
— 滝薫 (@Hannahkuku0819) October 3, 2020
今思えばその考えは社会人の日常を舐めすぎだとわかる。要反省だ。
そして、今はなぜライターという職業にこだわっていたのかわからなくなっている。
最低限度の保証の中で息を潜めるように節約に励むうち、情熱が消え、消極的になったのかと訝しんだが、どうやらそういうわけでもなさそうなんだよね。
自己救済のために書いている
社会からあぶれた精神疾患当事者としての自尊心を補償する手段が、私にとってはライターだった。一発逆転思考だ。「普通」に戻れないから、それとは遠い存在になってしまったから、いっそ突き抜けようとする。別軸で生きようとする。
でも、一発逆転なんて無理だ。人は日々を積み重ねていくことでしか変わらないし、見返してやる、取り戻してやるといったハングリー精神を燃焼させて動くことは、とても苦しい。別軸で生きようとしているのに、背後にある横並び競争軸のような思想は消えていないのがわかる。
そのような状態で書いている文章は、見苦しいと思った。
結局のところ、私の原動力は反骨精神もとい怒りだ。この私がなんでこんな惨めな思いをしなければならないのだという怒り。自分が中心にあって、その人生の理不尽センサーに反応したものに対して、怒りをぶつける文章を書いていた。
そのような怒りは非常に、大雑把だ。理不尽の先が悪い意味で明快で、引っかかるものが当事者性を帯びるものしかなく、書けるものが少ないことに気づいてしまった。
現状の社会に怒り、こうであってほしいと願うことが原動力のライターにはなれなかった。いや、自分に関することなら、そうであれるのだ。しかし、私は繊細な違和感ベースの広い視野を持つことができない。ある意味徹底的にエゴイストだった。
書くことは私の保ち方なので、やめることはないだろう。しかし、私は「生きるために」書かざるを得ない時にしか書けない。自分語り以外、書けないのだ。
世の中の悪を見つめるみたいな作業、疲れた
「ライターになる=苦しい」という等式が頭の中に出来上がっていることも問題だ。このように私は私に関連すること(例、フェミニズム・障害・福祉)しか興味がない。様々な方向にアンテナを張り、現政権に怒り、権力を監視する、というような「世の中の悪を見つめて是正させる」みたいなことが、無理しないとできない。
次第に、現在活躍しているライターの方を見ていると、この人は仕事のパフォーマンスとして怒っているのかな、なんていやなことを考えるようになった。
怒るのが仕事になるなんて、私には耐えられないと思った。私の健康な部分、というか生活するのを楽しむ部分が社会情勢に飲み込まれて消えていくのを感じた。それが真っ当な行為だとしても摩耗してしまう。
結局、私は無関心や諦念の誘惑に耐えられなかったと言える。
これから一体どうしたいのか
私は「書く」ということ、表現自体が好きだ。ライターをやめたとしても、誰に頼まれたわけでもないのに書き続けるだろう。しかし、商業に乗ること、書くことだけで食べていくことは、今の時点では難しいと判断した。
私がやりたいこと、それは障害者という側面を持った私の自尊心の回復だ。
このようなnoteを投稿したことがある。
ここに書いた特例子会社や就労移行支援での出来事が、私の強烈な原体験になっている。
作業所に見学に行った時の、利用者たちのラジオ体操。スキャンとデータ入力しかさせてくれない特例子会社。十段階評価で毎日体調を聴かれる苦痛さ。大人が大人をケアするという残酷さ。健康と題した講座での、手の洗い方レクチャー(コロナ前)。病気を開示すると、「向き合ってかっこいいと思いました」と美談化される虚しさ。障害者雇用の賃金の低さ。
全部全部、くそったれだ。差別されていること、きたことを、私は絶対に忘れない。
それを全部変えたい。そのためならなんだってしたい。悔しい思いをする人が、一人でも減ってくれたらいい。これからもずっと障害者という存在が消えることはないのだから。私の血涙を結晶化して活かす場所は、社会課題はこれだと思った。
そのためにどのようなアプローチが必要なのか、どんな仕事に就くのが正解なのかはまだ模索中だ。とりあえずは生活保護の利用停止を目指して、経済的に自立することを目標に生きている。
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