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かわいい顔にだまされるなヨ!XGに学ぶポリコレ:HIPHOPの歴史とアジア人女性の在り方。

先月、新作のミニアルバムをリリースしたXG。Z世代に人気というが、彼女たちの音楽は、かつてローリン・ヒルやTLCをエンドレスリピートしていたアラフォーの私の心もわしづかみにした。

しかし、HIPHOPやR&Bは、「文化の盗用」の問題と隣り合わせでもある。youtube配信された、JURINとCOCONAのN.O.R.EのNothin'のビートジャック動画をみて、アジア人としてポリコレにどう向き合うべきなのか、いろいろ考えさせられたので、ここに記しておこうと思う。

文化の盗用(Cultural appropriation)について

定義とオリエンタリズム

文化の盗用とは、支配的な特権をもつグループが、マイノリティのグループの文化を、無自覚に搾取することを指す。

この言葉は、1945年にアーサーEクリスティーが、オリエンタリズムを論じたエッセイのなかで使ったのが初出だという。1945年当時オリエンタリズムは「東方趣味」くらいのざっくりした意味で理解されていたが、1978年にエドワード・サイードが『オリエンタリズム』という本を書いて、論理的な概念として整理した。サイードのオリエンタリズムは、「西=こちら側」、「東=あちら側」という二項対立をつくり、「あちら側の人たち」の人間らしい複雑さを無視して、過剰に良く、または悪く描写し、「あちら側」の幻想を作り上げることで、こちら側の「わたしたち」の幻想も同時に作り出している、という考え方だ。

たとえば、インディージョーンズが「東」で出くわす敵は、不自然なくらい野蛮で弱く、キリスト教的倫理観も欠如している。そういう敵をやっつけることで、「西」のインディージョーンズの賢さ、強さ、正しさが際立つ仕組みになっている。サイードのオリエンタリズムはなんでもかんでも二項対立にしすぎ!という見解もあるのだが、とにかく「文化の盗用」の訴えは、「あちら側」の存在とされた人々が、「私たちの歴史や文化の幻想を作ったり、勝手に改造したりして、お金儲けするのはやめてほしい!」というものである。

文化の盗用の正解のなさ

ところが、文化の盗用を糾弾する人は、必ずしもマイノリティとは限らない。なんなら、白人が白人を取り締まる声のほうが大きいような気もするし、SNSにおけるやりとりは、私が分かる日本と英語に関していえば、ただの揚げ足の取り合いというか、当事者不在のポリコレ知識マウンティングの様相を呈していることがある。

そもそも、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)という言葉は、マルクス・レーニン主義に端を発し、「アーリア人だけが政治的に正しい意見を持てる」というナチズムのプロパガンダに使われたという。それを、アメリカの左派が再利用して今日に至るわけだが、この起源を考えると、ポリコレという考え方そのものが排他的、全体主義的な要素を持ってるといえる。だから「政治的な正しさ」は、だれにとっての「正しさ」なのかという議論はもっと必要な気がする。

搾取する側の人間の声は、デフォルトで音量が一段階デカい。だから支配的な立場に立つ人間が、リサーチと対話をせずに、搾取された「あちら側」を勝手に代弁することも、たとえそれが善意による行いであっても、歴史や多様性を矮小化することになりかねない。自分は自分にしかなれないのだ。わたしは当事者だろうがそうでなかろうが、だれでもいつでもどんな意見でも言っていい、と思っているが、だからこそ「言わない」「相手の声の音量をあげるアンプ役に徹する」という行為も、重要だと思う。

こんなことを言ってるわたしも、このXGのビートジャックのサムネイルを見たとき、ブラックカルチャーの盗用なんじゃないか?と即座に思ってしまったのだが、そのあと、冷静に、N.O.R.EとXGの動画を見比べたことで、このビートジャックは、文化の盗用の問題を乗り越えつつ、アジア人女性として静かな異議申し立ても行っていて、結構すごいんじゃないか?と思った。

N.O.R.EのNothinへのリアクションとしてXGのNothinを見てみる

まずは、N.O.R.Eオリジナルバージョンのオリエンタリズム

90年代後半から2000年代のアメリカのポップカルチャーには、オリエンタリズムが欠かせなかった。中国や日本のイメージはいたるところで消費され、N.O.R.Eのビデオも例外ではない。

このビデオは、チャイナタウンを思わせる場所に、変な色の車が止まるところから始まる。暗い階段を上って、女性の手をひっつかみながら、奥に進むと、セクシーな女性たちがお尻をふりふり踊っていて、背景には、朱色のカーテン、金屏風が置かれている。一方、建物の柱は、真っ赤にペイントされているものの、アジアより、もっと西の方の香りがするデザインだ。

フックが始まると、カメラのアングルはぐっと低くなり、N.O.R.Eを見上げる構図になる。彼の頭越しには、真っ赤な天井に、竹があしらわれているのがよく見えるのだが、なんか、この内装、六本木の権八とか、イーガ団のアジトみたいじゃない?アジア人には「アジア風」と映るけど、非アジア人には「これぞ本物!オーセンティック!」と映っていそうな、「幻想のアジア」。

ラッパーとして成功したN.O.R.Eが遊びに来るということは、この「幻想のアジア」は、当時、イケてる空間として人々の目に映ったのだろう。”white boy club"(白人ミュージシャンの集まり=アメリカのポップチャート)でヒットをとばした、とラップしながら、幻想のアジアで羽振りよく遊ぶ(消費する)ことで、「俺はトップオブトップ」というメッセージを発している。まさにサイードのオリエンタリズムの構造だ。

また、このビデオには、当時のヒップホップMVに不可欠だった「セクシーダンス要因のおねーちゃんたち」も例外なく登場する。そのなかに、一人だけアジア系の女性がいる。ラッパーたちと円卓を囲んでいるが、彼女はあまり映らず、一言も発さず、伏し目がちで、楽しいのか悲しいのか、よくわからない笑顔のまま、くねくねとリズムに乗っている。たった一人だけというのが、妙に目立つ彼女もまた、消費される「幻想のアジア」の一部だ。まぁ、このビデオは、女性全員を成功者の持ち物ってかんじのオブジェとして消費しているのだけど。

XGのリアクション①盗用と歴史的参照の線引きをする

XGのビートジャックバージョンは、N.O.R.EのMVがファッション感覚で「オリエンタル」と一括りにしたものに、ルーツを持つ人間による、オリジナルにへのリアクション動画という解釈もできると思う。

映像は、JURINとCOCONAがオールドスクールラッパーっぽい出で立ちで、コンテナの上に座っているところから始まる。彼女たちの衣装をよく見ると、明確な意図をもって選ばれたアイテムを身に着けていることがわかる。

まず、JURINが被っている、懐かしのモコモコバケットハットには、"Chad Pharrel"という刺繍が入っている。これは、N.O.R.EのNothinのプロデューサーThe Neptunesのチャド・ヒューゴとファレル・ウィリアムズを指している。JURINの迫力あるバギースタイルは全身ルイ・ヴィトン。今年、ファレル・ウィリアムズが、メンズウェアのクリエイティブ・ディレクターに就任したブランドだ。

COCONAの装いは、N.O.R.Eのビデオへのオマージュといえる。彼女のキャップのロゴは、N.O.R.Eのジャージについたフェイクシャネルロゴとゆるくつながるし、エンジェルズの大谷翔平のユニフォームは、N.O.R.Eのアストロズのユニフォームにリンクする。また、曲のおわりで、COCONAは羽織っていたシャツを脱いでTシャツを見せているが、そこにはBAPEの創設者NIGOがプリントされている。NIGOは、ファレルの友人で2000年代からたびたびコラボをしており、Tシャツのマスコット風グラフィックは、ファレルのアルバムカバーにも使用された。唯一、ちょっと遊んでいるのは、ブリンブリン風のネックレスで、本来はダイアモンドを見せびらかすものだが、K-POPが火付け役のパール仕様になっている。

XGのNothin'は、リリックに小ネタがあふれていることで、HIPHOPファンの心をつかんでいるそうだが(『XG「Nothin’」ヒップホップ愛に溢れたサイファー動画を徹底解説!』)、ヒップホップのやり方でスタイリングされた衣装は、リリック同様に、「原盤とThe Neptunesリスペクト」というメッセージを明確に発信している。

セットをみてみると、ブリンブリン必需品の変な色のオープンカー、アナログDJ機材が道具として使われているが、背景にはつねにコンテナが映り込んでいて、なんとなく、すべてのアイテムが仮置きされている感じがする。文化や歴史の香りがしないコンテナ置き場は、マルク・オジェの「非場所」的なところ―――アイデンティティや個人の差異がうすまるような場所だ。そういう匿名性の高い場所に、ヒップホップの歴史を連想させるアイテムだけを置くことで、カルチャーの"appropriate"(私物化)ではなく、"historical reference"(歴史的参照)、つまりもとの文脈を編集していないという態度が現れているように思う。一方で、コンテナから連想する「越境」「発展」といったワードから、これからもHIPHOPの歴史が続いていくことを示唆している。

XGは、N.O.R.Eの「幻想のアジア」を踏襲して、ポリコレの名のもとに自らを再オリエント化することからも、「なんとなくブラックカルチャー」をやって、N.O.R.Eの文化を私物化することからも退いている。原盤にかかわったアーティストの仕事を正確に引用、言及することで、「文化の盗用」と「歴史のメンション」の間にしっかり線引きし、影響をうけたカルチャーに敬意を表しながら、同時に消費されるアジアを否定した。どこからどこまで計算されてるのかわからないけど、さらっとすごいことをやっている。

XGがやったこと②アジア人女性の主体性を奪還

この映像で、XGが大きく刷新しているのは「アジア人女性」の在り方といえるだろう。N.O.R.Eのビデオに登場したアジア人女性とは対照的に、JURINとCOCONAはカメラをまっすぐ見下ろしてラップをし、カメラのフォーカスも彼女たちにぴったりあっている。彼女たちのフックはこうだ。

Homeboy, we came to party
God's favorite like a N.O.R.E
When we rappin' about it, we can back it up
But you don't want the rest of my girls to start actin' up

What you gonna do (Nothin')
What you tryna' do (Nothin')
What you gonna do (Nothin')
What you tryna' do

Homeboy, わたしたちはパーティーにやってきた
神様のお気に入りよ N.O.R.Eみたいにね
ラップすれば、それを証明できるわ
だけど あなたは 私の大事なメンバーが好き勝手するのが嫌なのね

あなたは何をするの?(なんにも)
あなたは何をしようとしてるの?(なんにも)

XG. Nothin'(作者訳)

Homeboyは、地元の不良のツレを指すというが、N.O.R.E版は、「お前は何をするんだ?何をやろうとしてんだ?」という男同士の挑発めいた会話である一方、ビートジャック版は、「神様のお気に入り(God's favorite)」とN.O.R.Eのアルバムタイトルを引用しつつ、女の子たちと”Homeboy”のあいだのやり取りになっている。音楽的理由で、キャッチ―な"Homeboy"を残したとは思うが、結果的に、男性ラッパーが作り出した女人禁制のボーイズクラブに介入し、JURINとCOCONAが、男性に呼びかけて、彼の意思を問うという、なかなか強気な仕上がりになっている。これは、アジア人女性の主体を「こちら側」に奪還する行為とも読めるだろう。

この態度は、女性ラッパーがセクシー路線一辺倒になった2000年代ではなく、80年代後半から90年代初頭のフィーメールラッパーたちを彷彿とさせる。クリーン・ラティファの『U.N.I.T.Y』(1993)のビデオでは、巨大クレーンに吊られ、ゆーらゆら揺れるゴンドラのなかで、クイーン・ラティファがどっしり力強いラップをする。わたしは見てて酔っちゃうが、アフリカン・アメリカンの女性が抱える、ままならなさと、それを戦い抜くタフさをあらわする素晴らしい映像表現だ。

似たように、XGのふたりが立つコンテナ置き場もまた、「アジア人の顔の区別がつかない」みたいな人もまだまだいるグローバル市場のなかで、K-POPアイドルが、輸出入される同じ形のコンテナのように扱われる現状を示唆しているように思える。そのなかで、3か国語を駆使して、「体は小さいけど神経は図太い」とラップする彼女たちは、カルチャーごった煮状態のグローバリゼーション時代、まだまだ自分と同じアジア人のロールモデルが少ない世の中を生き抜く、アジア人Z世代の「主体性」を表現するかのようだ。

最後に

「文化の盗用」という概念は、日本では、「考えすぎてる」「怒るようなことじゃない」といった意見でやり過ごされるという。それらを、平和ボケと揶揄して、グローバルスタンダードという幻想の基準に矯正しようとすることが、果たして正しいのか、わたしにはわからない。ただ、巻き起こる論争を対岸の火事として、やりすごすよりは、「だれが、なんで怒ってるのか?」に興味をもつほうが、自分のことを知ることができる。XGのビートジャックは完璧な立ち回りで、成功を収めたわけだが、いろんなことを考えさせてもらった。これからも彼女たちから目が離せない。


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