梢ハンナ

アート、カルチャー、ファッションにまつわる雑記

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最近の記事

石川真生『私に何ができるか』@東京オペラシティ アートギャラリー

展覧会にいくと、作家が現役でも、作品が死んでいる、と直感的に思うことがある。なぜそう感じたか考えてみても、予定調和、自己模倣、キュレーションの悪さ・・・ざっくりとした理由しか思い浮かばなかったが、石川真生の「私に何ができるか」を見て、ひとつの答えを見つけた気がする。 この展覧会で、わたしが長らく滞在したのは、石川が2014年から毎年作り続けている『大琉球写真絵巻』のパート8~10の展示室だ。この作品は、彼女が「興味をもった人」だけが登場する、「庶民の歴史」の記録だという。最

    • かわいい顔にだまされるなヨ!XGに学ぶポリコレ:HIPHOPの歴史とアジア人女性の在り方。

      先月、新作のミニアルバムをリリースしたXG。Z世代に人気というが、彼女たちの音楽は、かつてローリン・ヒルやTLCをエンドレスリピートしていたアラフォーの私の心もわしづかみにした。 しかし、HIPHOPやR&Bは、「文化の盗用」の問題と隣り合わせでもある。youtube配信された、JURINとCOCONAのN.O.R.EのNothin'のビートジャック動画をみて、アジア人としてポリコレにどう向き合うべきなのか、いろいろ考えさせられたので、ここに記しておこうと思う。 文化の盗

      • エビちゃん系女子と見た『勝手にしやがれ』

        ゴダールがこの世を去った。わたしは、映画をよく知らないので、あーだこーだ語るほどの知識がない。ただ、彼の『勝手にしやがれ』は、わたしが「芸術ってすごい」と肌感覚で知った原体験のひとつである。 2000年代中頃、わたしが女子大生だった頃。時はCanCam全盛期。専属モデルだった山田優と押切もえにぶっちぎりで差をつけて、エビちゃんが当時の「カワイイ」の頂点に君臨していた。女子大生たちは、こぞってロングヘアをコテで巻き、サマンサタバサ(お金があればクロエかバレンシアガ)のパステル

        • わたしはどこ?——澤田知子「狐の嫁入り」@東京都写真美術館

          顔、顔、顔。写真美術館で開催されている澤田知子の個展「狐の嫁入り」には、澤田知子がいっぱいいる。でも、同時にどこにも澤田知子はいない。ずらっと並んだセルフポートレートのひとつひとつを見つめていると「澤田知子はどこにいるのか?」という私の問いは「わたしはどこにいるのか?」という問いにすり替わっていく。 澤田は、デビュー作から一貫して「外見と内面の関係性」というコンセプトを、さまざまな女性に変装したセルフポートレートをタイポロジーのマナーで並べることで模索してきた。アート史にお

        石川真生『私に何ができるか』@東京オペラシティ アートギャラリー

          ユートピアなはずのあつ森にモヤモヤした理由

          今年のあたまに、はじめて「あつまれどうぶつの森」をプレイした。わたしはシムシティみたいなゲームにめっちゃハマるタイプなので、あつ森もハマると確信していた。ところが、わくわくしたのも束の間、島の開拓の序盤で「この無人島を発展させる仕組みって、現実世界に起こっている搾取の構造と同じよね?」と思ってしまった。そう思ったら、貝をひろっても、木を揺らしても、可愛さより疑問のほうが勝ちはじめ、頭の中がざわざわでいっぱいになり、およそ1ヶ月でプレイするのをやめた。「あつ森すっごく楽しいから

          ユートピアなはずのあつ森にモヤモヤした理由

          石岡瑛子展で「わきまえない女」を考える

          森喜朗の一件で、「わきまえない女」というハッシュタグがバズっている。「余人をもって替えがたい」という援護射撃や、自分のためにしか闘わない小池百合子をみていると、結局、世の中は森喜朗の金太郎飴なんだと思う。切っても切っても父権性は消えない。それでも、「わきまえない女」になります!と宣言する気が起きない。そもそも「わきまえない女」ってどんな女なんだ?「わきまえない」の実践って、食生活から一切の動物を取り除くヴィーガンの実践のようにシンプルじゃない。ポリコレに反した人間を画一的に排

          石岡瑛子展で「わきまえない女」を考える

          アートの居場所:オリジナルとコピーについて

          〔本来それがあるべき〕場とその独自の伝統の外にあるためにその芸術固有の歴史の外部にとどまっている、いわゆる「素朴派」の画家と同様、「素朴な」鑑賞者は、芸術的伝統の独自の歴史を参照することによってしか意味をもたないような芸術作品については、しかるべき特定の知覚に到達することができない。       ピエール・ブルデュー 『ディスタンクシオン:社会的判断力批判』 数年前、ドクメンタを見るために滞在していた、ドイツのカッセルで面白い光景をみた。街のカバン屋のショーウィンドウで、セ

          アートの居場所:オリジナルとコピーについて