エビちゃん系女子と見た『勝手にしやがれ』

ゴダールがこの世を去った。わたしは、映画をよく知らないので、あーだこーだ語るほどの知識がない。ただ、彼の『勝手にしやがれ』は、わたしが「芸術ってすごい」と肌感覚で知った原体験のひとつである。

2000年代中頃、わたしが女子大生だった頃。時はCanCam全盛期。専属モデルだった山田優と押切もえにぶっちぎりで差をつけて、エビちゃんが当時の「カワイイ」の頂点に君臨していた。女子大生たちは、こぞってロングヘアをコテで巻き、サマンサタバサ(お金があればクロエかバレンシアガ)のパステルカラーのハンドバッグを腕にひっかけて、ピンヒールを鳴らして前のめりで歩いていた。

今思えば、不況がリアルにヤバくなってきて、90年代の「強いクールな女」が、急速に「モテ系」へと取って代わったのがあの頃だった。とくに男女の賃金格差が大きな日本では、結局、自立を目指すより、高身長、高学歴、高収入な男性にモテるほうが、生存戦略としては省エネであることに、女の子たちが気が付いたのだろう。いわゆるフェミニズムの揺り戻しのタイミングだった。

わたしは、エビちゃんが嫌いだった。といっても、エビちゃん本人じゃなくて、エビちゃんが発する記号が嫌いだった。なんか、裏切られた気がしたのだ。子供の頃に安室ちゃんをみて、思春期にはTLCとかデスチャを聞きながら、大人になったら、クールで自立した女になるんだい!って思ったのに、今更、このダサイお姫様ワンピを着て、ニコニコしてないといけないの?まじで?!みたいなかんじで。

結局、ワンピースに袖を通すことなく、わたしは大学に通っていたのだが、ある年、単位はとりやすいけど、地獄のようにつまらないことで有名なフランス文化史の授業を履修した。このクラスのなかに、テニサー系エビちゃん女子がいた。紋切り型のモテファッションで香水をぷんぷん香らせ、隣にいる地味めの女の子と、高い声で嚙み合わない会話を何ターンかしたあと、真っ白なコートを脱ぎもせず、机に置いたハンドバッグを枕に、イヤホンで音楽を聴きながら堂々と爆睡し、先生にあてられても上目遣いと「フフフ」だけで乗り切っていた。こいつぜってーここで勉強する気ねーな、ということは、だれの目にも明らかだったが、女としてはトップクライマーのオーラを漂わせていた。

そんな最強テニサーエビちゃんが、一度だけ、能動的な様子を見せたことがあった。それが、ゴダールの『勝手にしやがれ』の観賞会だった。普段は詩とか小説の読解をする授業だったが、なぜか、その時だけ映画をみた。

正直、わたしは臆面もなく頭からつま先まで、エビちゃんを真似する女たちの事を、ちょっと軽蔑していた。なんでおじさんたちが作る「モテファッション」に、ホイホイついてくの?なんで自分の好きな服を着ないの?ってなかんじで。単純に、わたしが世間知らずなだけだったんだけど、それは後で書くとする。

とにかく、講義室のなかにいるテニサーエビちゃんとわたしは、絶対に交わることない人間二人だった。お互いの世界に、お互いは存在しなかった。そんななかで『勝手にしやがれ』の映画上映が始まった。ゴダールを知らなかった当時のわたしは、「フランス映画か、これはよく眠れそう」とか思っていた。わたしはわたしでアホだった。しかし、冒頭ですぐに映画の世界に引き込まれ、パトリシアとミッシェルの逃走劇を固唾をのんで見守った。

上映中、ふと、視線を斜め前に落とすと、前の席で、白いコートが身を乗り出して、かじりつくように映画をみている。あ、テニサーエビちゃんも、この映画、面白いと思ってるんだ。

この映画の終わりはあっけない。ラストシーンが終わって、教室の電気がついた。胸がドキドキしていた。なにがどう面白かったのか?わからない。でも、心が動いている。言葉で説明できないけど、面白かった。そんなことを考えていると、前のほうで、テニサーエビちゃんが、「面白かった・・・」とつぶやいたのが聞こえた。いつものふわふわ声じゃない、しっかりしたトーンのつぶやきだった。

そのとき思ったのだ。こういうのが、芸術なのかも、と。何一つ共通点のないわたしたちを、『勝手にしやがれ』は、価値観の違いを超えられるくらい遠いところまで、旅させた。わたしも、彼女も我を忘れたから、一瞬だけ、あらゆる境界線が消えていた。アイデンティティとか言語が介入する前の、感受性の輝きが、交差した感じがした。なんかミラクル起こってるよね、いま、すごいな、ゴダール。そんな感じだった。

この2,3年後、リーマンショックが起こった。その最中にはじめた就職活動で、わたしは女として社会を生きることの現実を知る。男なら武器になる経歴や能力は、女だとプレゼン次第では足枷になった。それでわたしは思った。モテ系ファッションを選んだ女子たちは、単純にエビちゃんが好きで真似してたわけじゃなくて、肌感覚として、自分自身のスタイルに固執するより、「わたしは無害ですよ」というサインを発するファッションに身を包むほうがうまくいくことを、わかってたんじゃないかと。もしそうだとしたら、めちゃくちゃ達観してるじゃないか・・・。

テニサーエビちゃんが、どこまで自覚的にモテ系ファッションを実践してたかはわからない。でも『勝手にしやがれ』を見た後の「面白かった・・・」っていうつぶやきから数秒間くらい、彼女は素だった。周到に重ねた社会的な顔のお面を外させて、自分の中を旅させるような作品をつくったゴダールはすごい。映画史的にどうこうってのはわかんないけど、そういうごちゃごちゃは批評家が語ればいい。あのときの『勝手にしやがれ』みたいな作品に、また出会いたいと思っている。そのときまで、言葉より、感受性を守って、生きていようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?