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04.(突然ですが)yohakuの渡辺さんって信頼できる

HANMO
HANMOはサステナブルな循環経済を実現するために生まれたTシャツです。服をつくるときに、どうしてもできてしまう端切れ。この端切れから糸を紡ぎ、生地をつくるのが 【反毛 はんもう】です。反毛の糸は不均一さを持つ独特の風合い。製造ロットごとに少しずつ表情も変わります。 反毛を使うことで、ふんわりとした着心地のTシャツができました。           https://hanmowear.jp/


突然だが、筆者は渡辺さんのことを信頼できるやつだと思っている。

そして、渡辺さんのもとで働くまゆこさん、もゆさん、そらさんのことを、本当に尊敬しているし、そして圧倒的に信頼をしている。HANMOの魅力は、服だけではなく、その背後にあるyohakuというブランドの中の人たちの人となりがそのまま服になったブランドだと思う。yohakuの人たちは、yohakuを運営している株式会社サンカーベの社長と社員という肩書きではなく、一人の人間として肩肘張ることなく生きている。人より偉くなろう、とか、優位に立とう、みたいなことは彼らの辞書にはない。そのままなのだ。そんな彼らが作るからyohakuの服は着心地がいいし、着ている人をふんわりと包み込む。

「どうして渡辺さんは渡辺さんになったんですか?」と聞くと、「えっ....。」と渡辺さん。渡辺さんは、ゆっくりと聞かれた言葉を咀嚼してから話始めるタイプの人間だ。白水さんが「あれでしょ?山手線をぐるぐるまわっていたんだよね?」と笑う。「ああ、ホームレスだったときに行くあてがなくて山手線をぐるぐるしていた時期があってね。」と渡辺さんがぽつぽつと話し始めた。


渡辺さんホームレスになる

渡辺さんはyohakuを運営する株式会社サンカーベの2代目社長であるが、始めからサンカーベに就職し、後継として順風満帆にスタートしたわけではなかった。

始めは税理士や会計の勉強をするべく簿記の専門学校に通っていた渡辺さん。性に合わなかったのか、学校にいかずふらふら。心配する父親から雑貨屋の物流倉庫を紹介してもらい働き始めるも、すぐに嫌気が差し、結局黙って辞めてしまったりとふわふわふらふら過ごしていた。ついに父親から勘当されて、行く当てもなかった渡辺さんは1年半ほどホームレス生活に。新宿や東京をさまよい、ビルの屋上や美術館で寝たり。友人の家に駆けこんだりしながら生き凌いでいた。この時に行くあてもなく山手線をぐるぐる周っていたらしい。

渡辺さん家業を継ぐ

そんなある日、唯一連絡を取り合っていた姉から父親が倒れたという一報が。実家に戻り父親の見舞いにいくと、病床に伏す父親からサンカーベの経理を任された。当時渡辺さん23歳。病院と会社を行き来しながら父親から経営や経理について学びながら実践していったそう。父親が退院した後、当時自社工場としてサンカーベが所有していた秋田の工場を任されることに。このときサンカーベは、肌着のOEM(委託生産)が主要ビジネスで、Tシャツが2、3万円程するラグジュアリーブランドと取り引きを行なっていた。右も左もわからない状態で、最初は出来るかどうかわからない顧客からの注文も嘘をついてでも必死に受けていた。出来なかったことは土下座すれば済むというスタンスで働き続けた渡辺さん。今の渡辺さんからは全くもって想像ができない。

そうやってがむしゃらに働き続け、なんとか仕事が回り始めた。しかし収益が上がれば上がるほど、倉庫に積み重なっていく生産で余った生地(残反)や卸価格からかけ離れた額に設定してある顧客の小売価格に対しての疑問が高まってきた渡辺さん。残反に至っては、1年に1回棚卸しをして捨てるのだが、生地価格にして100-200万円ほどの量だったとのこと。リーマンショックを機に事務所を恵比寿か問屋街がある馬喰町に移した。この時から事務所の前でこっそりとB品や残反をを使った服を販売し始めた。yohakuの再生シリーズの誕生である。


渡辺さん立ち上がる

一度行動し始めると、徐々にOEM事業がめんどくさく思えてきた渡辺さん。事務所前の売上が月10-20万、OEMの売上が月3000万。普通であればなかなかOEMを手放すことができないはずだが、さすが我らが渡辺さん。少しでもおかしいなと思ったことはおかしいし、一度決めたことに向かって猛進するのである。(だから信用できるんです。)社員の方々の次の職のサポートもしながら、自社ビルを売り、それを資金源に浅草に「ユトリト」をスタート!のはずが、そうはうまくいかず。今度は東日本大震災が起こる。どう逆立ちしても資金はすっからかん。さてどうしようというときに、倉庫の残反が目に入った。通常は廃棄物として捨てられる残反だが、ずっと残反を捨て続けていることに対して疑問に思い、そして窮地に立たされていた渡辺さんには資源の宝に見えた。

浅草で借りた物件は、人の出入りが多いが固定費も高く「固定費を回すためにどう売れるか」という発想のもと売れる商品を販売していたが、それも疲れた。最終的には着心地が良いということで女性のファンが増え、固定客が増えてきたタイミングで、今路面店「余白」を設けている鳥越に引っ越した。ここから渡辺さんも「作りたいもの、納得したものを作る。」と意識が固まり、今のスタイルになった。今は流行を追わず長く着続けれるものを生産している。


そしてyohakuと渡辺さんの「らしい」こと

yohakuという名前がブランド名として確立しはじめたのは、6-7年前。浅草のお店で使っていたユトリトという名前は商標登録が取れず、さてどうしようと考えたときに、ふとパソコンのキーボードを眺めてた。スペースキーに目がいった渡辺さんは、無駄にでかいそのキーを眺めながら「いいな。」と思ったとのこと。

昨年12月に鳥越の余白にて行われた「余白のアイデンティティ展」で、壁に貼ってある紙に書かれた文字がとても渡辺さんらしく、そしてyohakuらしかった。


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まああれですよね
そのままでいるってことかな
そうしないと 嘘に
なるからねそれはちょい違うかなー
うんそう思う



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バックナンバー

01. 綿100%で生産と再生を繰り返すTシャツ「HANMO」

02. 「着る」という行為からその意思を拡張するHANMO




HANMOについて                       HANMOは、循環する服作りをテーマに集まったサイセーズ株式会社と株式会社博報堂ミライの事業室の共同プロジェクトです。これまで服作りやブランドづくり、ECなどに関わってきたメンバーが集まって、それぞれの得意領域を持ち寄りながら、新しい循環経済の仕組みづくりを目指しています。                        
このnoteをかいたひと                        大山貴子(おおやま たかこ)
株式会社fog代表取締役。米ボストンサフォーク大にて中南米でのゲリラ農村留学やウガンダの人道支援&平和構築に従事、卒業。ニューヨークにて新聞社、EdTechでの海外戦略、編集&ライティング業を経て、2014年に帰国。日本における食の安全や環境面での取組 みの必要性を感じ、100BANCH入居プロジェクトとしてフードウェイストを考える各種企画やワークショップ開発を実施後、株式会社fogを創設。循環型社会の実現をテーマにしたプロセス設計を食や行動分析、コレクティブインパクトを起こすコミュニティ形成などから行う。https://note.com/octopuseatskale                                                     株式会社fog                            “循環”が社会のエコシステムとして機能する社会を創造するデザインファーム。企業や自治体、コミュニティや消費者など、様々なセクターと手を組み、人を含む生物と地球にとって持続可能な環境を構築するプロセスをデザインしている。                        https://fog.co.jp/

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