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球体の動物園① エミューの笑み

「うちのビルの屋上に、変なヤツがいるみたいだから、確認してくれるかな?」
 社長から電話があったのは、俺が明日お客さまに渡す賃貸契約書をちょうど書き終えて帰ろうとしていたときだった。
 先に事務所を出た社長は、たぶんこのビルの向い側にあるバーに座って、いつものようにジントニックを飲みながら窓の外を見上げ、変なヤツに気づいたのだろう。
「了解しました。見てきます」
「大丈夫? 無理だったり、危なかったりしたら、こっちの携帯に電話して」
 社長の声色からすると、その変なヤツは屋上のフェンスをすでに乗り越えているのかもしれない。この雑居ビルにはセキュリティ設備というものがないので、不審者から人気がある。空き巣や自殺希望者を吸い寄せる物件だ。
 俺は電話を切ってから大袈裟なため息をひとつつき、四階の事務所から七階屋上へと階段を二段とばしで駆け上がった。
 案の定、屋上へ出るドアの鍵は壊されていた。関係者以外立ち入り禁止と社長自らが書いた貼り紙は、右上のセロテープが剥がれて、壁でゆらゆら揺れていた。俺はもう一度ため息をついて、青いペンキがところどころ剥げている重たいドアを肩で押した。
 とたんに、びゅぅっという音とともに髪が風にかき上げられた。車のクラクション、どこの店から流れているのかも分からない音楽、叫び声や笑い声が耳に飛び込んできた。どこからかカレーのようなスパイシーな匂いがする。音も匂いも風が巻き上げ、かき混ぜ、ビルの屋上で都会のごった煮を作っていた。
 ドアの前に立って辺りを見回した。このビルの屋上に灯りはないが、両隣のビルの壁に取り付けられた飲み屋の派手な電飾看板が、屋上のフェンスの向こう側に立っているヤツを照らしていた。ピンクやブルーの点滅する灯りは、暗闇に立つ細長い後姿を浮かび上がらせたり消したりする。言葉を交わしたことはないけれど、ときどきこの街で見かけるヤツだった。立っているだけで目立つから、すぐに分かる。
 俺はフェンスにそっと近づいて、背後から声をかけた。
「あれ? エミューって飛べないんじゃなかったっけ?」
 エミューの全身がびくっと震え、長い首をひねって振り返った。でかい目をより大きく見開いている。お互い黙ったまま、見つめ合った。
 風が強弱をつけて吹く。強のときに、屋上の縁ぎりぎりに立っているエミューの細い脚がふらふらと揺れた。
「なぜ、人は、私たちのことを飛べない鳥と言うのでしょうね。なぜ、飛ばない鳥って言わないのでしょうね」
 口を開いたエミューが最初に言ったのは、めんどくさいヤツが吐く、典型的なめんどくさいセリフだった。エミューの声は予想に反して落ち着いていたけれど、とがったくちばしがさらにきゅんと鋭くなったように見えて、うんざりした。
 俺はフェンスにもたれて、胸ポケットから取り出した煙草を咥えた。ライターで火をつけようとすると風が吹いて火を消した。カチカチと何度もライターを鳴らして、やっと煙草に火をつけ、煙を胸の奥に吸い込んだ。その間、エミューはじっと俺を見つめていた。
「あのさ、そこからジャンプしても、飛ばない鳥が飛んだってことにはならないと思う。飛び降り自殺って言われるだけだ」
「一応、羽ばたいてみようとも思っているんですけどね。退化した翼ですが」
 エミューの翼は、俺からは見えなかった。長い羽毛に覆われた丸い胴体の側面にあるのだろうか。
 ぐーきゅるると、俺の腹が鳴った。腹は、タイミングを選ばない。
「一応、情報を与える。暗くて見えないだろうけど、このビルの四階の窓の前に多数の電線が走っている。そこから飛び降りると、その電線に身体のどこかがひっかかる。そして方向が変わって斜め下のパン屋のひさしに落ちる。そうなったヤツがいるんだ」
 エミューは、ビルの下を覗き込んでから、俺を振り返った。
「情報の追加をお願いしたいのですが、その、ひさしに落ちた人は、どうなったのですか?」                    「全身、かなりの数の骨を折ったけどな、今はピンピンしてる。あ、左手の人差し指だけ、動かなくなったらしい」
 エミューは、また俺の顔をじっと見た。俺は煙草の煙をエミューに向かって吐いた。煙はエミューに届く前に、風が拡散した。
「なぁ、エミュー、あんたを見てたら、焼き鳥が食いたくなったんだけど」
 エミューが顔をしかめたのが分かった。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
「冥土の土産に、焼き鳥屋まで付き合わないか? エミューって、肉も食うんだっけ? 確か雑食だよな? あ、共喰いはいやか? にわとり食ったら親戚喰い?」
 エミューは俺の言葉に、なぜか笑った。クククというような音を出したから、たぶん笑ったのだと思う。
「雑食ですよ。鳥類の肉を食べたことはありませんが」
 エミューは、またじっと俺を見つめた。そしてふっと息を吐いて、首を振った。
「そうですね、お供させてください」
 そう言うと、身体をひねってフェンスを飛び超え、屋上の安全な場所に立った。エミューが首をまっすぐにのばす。横に並ぶと、俺と同じくらいの身長だった。
「じゃ、ついて来いよ」
 俺は吸殻を携帯容器に入れてから歩き出し、青いペンキで塗られた小汚いドアを、今度は外から内に開けた。

 路地裏にある小さな焼き鳥屋のカウンターに、俺とエミューは並んで腰掛けた。
「生ビール大ふたつ。それから、俺の好きなもん、おまかせで」
 顔なじみの大将にそう告げて、おしぼりで手を拭きながら店内を見渡した。カウンターだけの細長い店は満席。一番奥には、若い女とかばのカップルがいた。かばはでかい身体を小さな椅子に押し込んで、葱を食べていた。かばの横の若い女が俺と目を合わせてからエミューを見て、微笑んで頭を少し下げるような挨拶を寄越したから、俺もこくりと会釈をした。
 乾杯はせず、ジョッキに入ったビールを俺もエミューも飲んだ。焼き鳥の匂いが充満する店内で、エミューは写真入りのメニューを真剣な表情で眺めている。
 大将が「はいよ」と、カウンターの向こうから俺の目の前に皿を置いた。一皿目に面白いものが出たなと俺は思い、自分の顔に皮肉な笑いが浮かび上がったのを自覚した。
「おい、エミュー、これが飛べる鳥だ。飛べたって、焼かれたら、こんなもんだ」
 皿の上の焼かれたすずめを、俺は指差して言った。焦げ目がついたすずめにはくちばしも目もある。人によっては、見た目が無理ですと言って受け付けない姿焼きだ。それをエミューは凝視した。
「あなたの言葉って、乱暴ですね」
「ふん。食ってみろよ。うまいよ。飛べない鳥が飛べる鳥、飲み込んじまえ」
「だから、飛べないんじゃなくて飛ばないんです」
 エミューはしばらく皿の上のすずめを見つめ、グロテスクですねと言ってから、齧った。天井を見上げて咀嚼している。
「別に美味しいとは思いませんが、満足感のようなものを感じます。新しい食べ物に挑戦したから、ですかね」
「エミューがすずめを食う。確かに小さな挑戦だな」
 俺はふんと笑って、皿にあったもうひとつのすずめを、焼かれても一羽と言うべきなのか、と考えながら食べた。美味い。
 死んで焼かれたら黒い煙になるだけよ、私は風にも幽霊にもならないからね。俺が中学のときに癌になった母親は、死ぬ数日前にさっぱりとした顔でそう言った。このすずめは姿のまま焼かれて、他者の腹に入る。
 大将が出してくるものを片っ端から食べた。もも、砂肝、こころ、ビール、ビール。左隣に座っているエミューは、しいたけ、蓮根、アスパラ、ビール、ビール。無言で食べて飲んだ。
 腹がやっと落ち着いて、椅子の低い背もたれにもたれるようにして息をついたとき、エミューが俺の左手をじっと見つめているのに気づいた。俺の左手には奇妙に曲がって動かない人差し指がある。
 店内には大将の趣味なのか古い流行歌が流れていて、人生はいろいろとかなんとか、軽快なテンポで歌っている。
「俺のばあちゃんちの前に小さな公園があって」
 空いた皿をまとめてカウンターの向こうの大将に手渡し、おしぼりでカウンターの上を拭きながら俺は言った。
「小学生の頃は、いつもそこで遊んでたんだ。遊具なんか鉄棒とぶらんこぐらいしかない、しけた公園なんだけど。そこでぶらんこの立ち漕ぎをして飛び降りる遊びを毎日やってたんだよ。暇なガキだったから」
 エミューの視線を横顔に感じながら、俺はカウンターを執拗に拭き、話し続けた。
「ある日、びゅんびゅんにぶらんこを漕いで飛び降りたら、バランスが崩れて、俺は両手をついた。あのときも、この左手の人差し指だけが折れたんだ」
 まっすぐにならない人差し指で、エミューを指差した。
「指は十本あるのに、あのときも、こいつだけ運が悪かったんだ。毎回、左手の人差し指。どこにでも、両手にもさ、運が良いヤツと悪いヤツがいるんだよなあ。運ってさ、確かにあるんだって思うよな」
 俺は両手をグーパー広げたり結んだりした。左手の人差し指だけが、上手く丸まらない。あの屋上から飛び降りたときは、身体中の骨、脚やら肋骨やらと、手ではこの指だけがぐちゃぐちゃになったからだ。
 左手の人差し指を見つめていると、灰色のふわふわしたものが指を隠した。エミューが自分の羽をそっと俺の左手に置いたのだ。
「運が悪いのが、一本の指だけで良かったですね。両手の指、十本全部、運が悪い場合もありますからね」
「まぁな」
「それにしても、小さなときから、高いところとか飛び降りることが、好きだったのですね」
「それ、馬鹿って言われてる気がするけど」
「何年前なんですか?」
 主語はなかったが、エミューが何を訊いたのかは分かった。
「三年前になるかな」
「また、やる予定ですか」
 エミューの顔を見た。長い首をかしげて、俺の顔を覗き込んでいる。何を考えているのか分からないエミューの目は、社長の目に似ている。
 あのとき、俺があのビルの屋上から飛び降りたとき、目を開くと、見知らぬ女性が俺を覗き込んでいた。女性は、もうすぐ救急車が来るからがんばれとか、死ぬなとか、あの状況で人が言いそうなセリフを吐かなかった。黙って、名前も知らない俺の手を握って、救急車に乗り込んで、病院までついてきた。そして、その手を握ったまま、私の元で働きなさいと、自分の会社に俺を引きずり込んだのだ。あのビルのオーナーで、不動産屋の社長だった。
 なぜ、こんなことを思い出しているのだろう。こんな話を、なぜ、エミューとしているのかも分からなかった。今日、屋上のフェンスの向こうに立っていたのは、こいつだったはずだ。
「いや。めちゃくちゃ痛かったから。沢山の骨を複雑骨折して、本当に大変だったから。あの辛さを思い出せる限り、ビルの屋上からっていうのは、ないな」
 そのときエミューの左隣に座っていた中年の男が、エミューに話しかけてきた。頬の痩せた男で、ときどきこの店で顔を合わせる。
「わし、オーストラリアに出張したとき、あんたの仲間に会ったわ。あんた、あんな遠くから来てこんな所で生きてるやなんて、偉いなぁ、がんばっとんなぁ」
 かなり酔っているようで、偉いなぁ、がんばっとんなぁ、を連発する。エミューにビールをおごってやると言い張った。
「いえいえ、ぜんぜんがんばってませんし、偉くもないです。どこが自分に合っているのかあてもなく探していたら、こんな遠くまで来てしまっただけです」
「いやいや、日本のこんなわちゃわちゃした都会で生きてるだけで、すごいことやわ。偉いわぁ、あんた」
 男はエミューの肩をたたき、俺にも話しかけてきた。
「兄ちゃん、まんまる不動産で働いてるやろ? 今、知り合いのスローロリスが部屋探してるんやけど、ええとこあったら、教えてや」
「はぁ、分かりました」
「あとな、わしは、小指が運悪かったわ」
 そう言って見せた左手の小指の第一関節から先がなかった。はぁ、としか言えなかった俺に、男は、いや、これは運やないな、わしのせいやな、と言って笑い、いや、こうなるまでに運が悪いこともいっぱいあったけんなあ、これも悪運の延長かもな、とぶつぶつ言った。
 エミューと俺は黙って、男のつぶやきを聞いた。男の関西弁は微妙に変で、アクセントや語尾に各地のものが混ざっているから、この男自身も色々な場所を転々としてきたのかもしれない、と俺は思った。
「いや、わしにも運がええときだっていっぱいあったんや、自分は運が良い悪いって決めてええのは、いったい人生のいつなんやろな? いつの時点で、俺は運が良いとか悪いとか、言うてもええんやろな?」
 俺もエミューも答えられなかった。
 結局、エミューはビールをさらに二杯、隣の男に飲まされた。俺は焼酎を飲んだ。
 俺もエミューも無理に会話しようとはしなかった。煙が充満する狭い店内で肩をくっつけ合ったまま、ただ食べて飲んだ。
 珍しく酔ってしまったのか、俺は頬に熱を感じ尻が浮いているような気分になった。あぁ、俺はまだ宙に浮いているのかもしれないと思った。地面にまだ辿りついていない。地面に叩きつけられていない。まだ、宙にいる。宙ぶらりん。
 ビールを飲むエミューを見た。
「俺、今週末さ、ばあちゃんちに遊びに行くんだけど、一緒に行かない? ばあちゃんちの前の公園で、俺が小学生のときやってたように、ぶらんこから飛び降りごっこしようぜ」
 エミューがびっくりした顔で俺を見た。飛び降りごっこ? そう呟いてから、なぜか身体をくねらせて恥ずかしそうに俯いた。
「私のようなものが同行したら、おばあさんは驚くのではないでしょうか?」
 俺はへへへと笑った。
「それは、大丈夫。ばあちゃんの許容範囲、広いから。柔軟性もすごいから」
 俺は饅頭を食べるばあちゃんの顔を思い出しながら言葉を続けた。
「俺のことだって、すんなり受け入れた人だからな」
 大将、おあいそ、と数人の客が立ち上がる。会社員風、大学生風、かばと若い女。
「俺、生まれたときは、女だったんだ」
 俺は隣のエミューに言った。エミューの顔を見ると、でかい目を細めていた。少し考え込むように間を置いて、口を開いた。
「あなたは、エミューのオスとメスの見分け方を知っていますか?」
「いや、知らない」
「そうですよね、知らないですよね。私がオスかメスかも知らないまま、ビールと焼き鳥をおごってくれて、おばあちゃんちにまで誘ってくれてるんですよね」
「まぁ、そうだな」
 エミューはうなずいて、それで良いのです、と言ってから、では、おばあちゃんちにお供させてください、と頭を下げた。
 俺はエミューの毛が立っている頭のてっぺんを眺めた。
「あのさ、焼き鳥屋に付き合えって誘ったけど、おごるとは言ってない」
「付き合えって言ったら、ふつうおごるでしょ」
 エミューの隣の小指の先がない男が、また顔をこっちに向けた。
「わしがおごったる。二人分、おごったるわ」
 聞き耳を立てていたのか、大声で言う。
 俺とエミューは、いえいえ、そんな、結構です、と声を合わせ言い、同時に笑った。
 笑い声は焼き鳥屋の煙に包まれ、煤で黒ずんだ天に向かって、舞い上がった。



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