ASD・FTM・双極性障害でどうやって生きてきたのか(その2)

さて、その2ではぶち当たった困難について書いていきます。
まずは【幼少期~小学校編】です。

男か、女か。

僕が最初に自覚していたのはFTMでした。
記憶の始まる3歳のときには自分のことを男と思っていましたし、幼馴染に「自分のことを男と思ってたんでしょ?」と馬鹿にしたような発言をされたときには顔から火が出そうでした。
このことは誰にもバレてはいけないんだ…と幼心にもわかりました。
それから僕は“ボーイッシュな女の子”という枠からギリギリ出ないように気づかいながら、ショートカット・スカートなんて履かない・男の子たちと遊ぶ、という典型的なFTMとしての幼少期を過ごしました。
それもすぐに終わりが来ました。小学校入学です。
そう、ランドセルの色です。有無を言わさず「赤」でした。
そりゃそうです。たとえ男まさりでも“ボーイッシュな女の子”を演じていたのですから。
必要以上に男と女の世界に分かれたことを意識しました。
今までみたいに男の子とばかり遊んでいたら変な目で見られる。
だから女の子と遊ばなくちゃ。…でも、すごく退屈でした。
これが僕が最初にぶち当たった困難で、しかし、どうしようもできないことでした。

僕がいないクラスの方が楽しそうだ

次に気付いたのは周りの人と自分がなにか違うようだということでした。
各行事のとき、自分のいない隣のクラスの方が一致団結して楽しそうに見えました。
なんとなく周りの人と会話がうまく続かないことや、興味関心がみんなのそれと違うことに気付きました。
テレビ番組の話題で盛り上がっていても僕は一切興味を持てませんでした。
それよりも「なぜこんなにも生きにくい社会なのか」「どういう世界ならいいのか」「なぜ生きるのか」「死んだらどうなるのか」「死んで意識が消えることへの恐怖」そんなことを考えていました。
大人になった今わかるのは「他者に興味がなかった」ということです。
しかし、当時はなにか違うようだ、ということ止まりで誰にも本音を話すことができませんでした。
そして小学生4年生のときにいじめられたことをきっかけに人間不信になり、誰とも会話しない生徒になりました。
担任とも意思疎通がはかれないので僕専属のお世話をしてくれる同級生の女の子がついて、この子は中学校を卒業するまで僕と周りとの媒介を手伝ってくれていました。


これで小学校までの話は終わりです。
この困難に対し、「こういう支援が欲しかった」という答えはこうです。

好きな色でいい

もう何年も前からランドセルの色はわりと自由な選択が可能になっています。
僕が小学生のときは女の子でもピンクを選ぶと奇異な目で見られるような時代でした。
もし、当時ランドセルの色を選べたのなら、とはいえ「男だと思ってたんでしょ?」と気付かれないように“ボーイッシュな女の子”の枠からはみ出さずに自己主張ができたのならどれだけ嬉しかったでしょう。
きっと無難にブラウンあたりを選んだと思います。
男っぽさ/女っぽさの象徴には当てはまろうとしなかったでしょう。
戸籍を男性に変えるほどなんだから「男っぽさ」に憧れているかと問われたらそこまで固執はしていません。
自分が好きなものを選べたらそれで良かったと思います。

自分の世界に潜っちゃえ

「他者に興味がない」ことは決してマイナスではないと思います。
他者に興味を持ってその世界から置いていかれないようにしなくては…!
そんな苦行をしなくて良かったんです、ほんとは。
そういう人間もいる。ただそれだけを教えてくれる人がいたらどれだけ良かっただろう。
小学生の世界はとてもとても狭いです。
親、兄弟、祖父母、教師、同級生、ほぼこれだけです。
当時はASDの診断は出ていませんでした。
しかし、自分ではどこかおかしいと気付いていました。
支援機関に繋がることはありませんでした。
もし、早期に診断が下りていて、うまく生きられないのなら「それが自分であって、それでいい」ということを肯定するサポートをしてください。
そして自分の世界に思いっきり潜ってください。
楽しい時間はそこにあるかもしれません。

以上が【幼少期~小学校編】になります。
今は支援の先生も充実してきていると思います。
僕は当事者として、大人になった今、過去を振り返りどういう支援があったら良かったかを今後も書いていきます。《続》



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