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日本も狭いけど、世界も狭いよ 運がつく時は、つく

ロンドンからパリに移ったボクは、GFがパリに来る準備で新聞広告で部屋探しをしながら 観光をする毎日でした。その日は、アパート内見があるまでの時間つぶしに、ファッションチェックに店回りしていました。
オペラの近くに ヴィヴィアン通りにあるジャンポール・ゴルティエのショップに
ぶらっと立ち寄った事で ボクのパリ生活のターニングポイントの始まりでした。
店に入って1階の洋服を見渡し 2階のフロアーに向かうと、東京で、吉川晃司のH&Mの現場で会ったりしていたS出版の美人O編集とバッタリ会っちゃいました。美人O編集、彼女とは、仕事自体は、1度しかなく、どちらかと言えば、プライベートで仲が良い飲み友達でした。ボク的には、ちょっとタイプで、軽いアプローチはしていましたが、年上で、ボクが、ちょっとガキぽっいのが、決め手にならない関係でした。そんな彼女が、「ハンジー、何してるの〜?」ボクは、ロンドンからパリに来た経緯を説明したら、いきなり、彼女が、その2日後のスケジュールを聞いてきたんです。
撮影の仕事を頼みたいって言ってきたのです。ボクが、「何の仕事なの、それって?」 聞くと。「資生堂のBeauty shootingなんだ。」とO編集が言ってきたんだ。思わず、「するする、するよ。」と返した。チャンスが来た、って感じ。
その時のボクは、この後、パリもハプニングもなく空結になって 近々、日本帰国も想定内になって来たパリ生活。これで、日本に帰っても ちょっとは、言い訳にもなる仕事だぁと考えてしまっていた気分でした。
というのも、当時、東京〜パリ間の全航空会社のフライトが、週2便しかなく 本当なら資生堂のH&Mがその日に着く予定だったのが、なぜか飛行機に乗り遅れで パリに着かず 困っていた美人O編集でした。彼女的に、誰でもよかったのか知りませんが、パリに、当てもなくH&Mを探していた最中、ニッチもサッチも行かない状態っだらしい。超ラッキー、ちょっと、神、かかってる〜僕。
話は、商談成立、撮影の打ち合わせも済み、そして、時間も、スタジオもすでに決まっているのもあって簡単に済み ボクに伝え 2日後撮影をコンファームされ 解散しました。
さて、これからは、道具集め、なにしろ、ボクも、パリについて4日目、メーク道具は、貴重品なので 機内手持ちで パリに持って来ましたが、ヘアー道具は、郵便配送で7日ぐらいの空便。パリの街も知らないボクにとって、どこで買い物をすれば良いのか分からない状態でした。ここも運がよく、その時のA&Bで借りていた部屋から徒歩10分に美容材料があると、A&Bのオーナーに場所を教わり 道具を買って問題解決。ハラハラ、ドキドキしながら 当日撮影日を迎えました。撮影は、日本でもやり慣れてる撮影で問題なく進行。まぁ、言葉の壁はありましたが、型ごとな英語でクリアー。モデルは、当時、日本人とフランス人のハーフのバレリーナと撮影。
かなりシンプルなヘアーメークのイメージなので ニュートラルなフレンチガールにしあげ順調に終えました。
撮影終了後、フォトグラファー、スタイリスト、プロジューサーなどが、気持ちよく声をかけてくれる仲になり 当時は、電話番号交換をした。今だと、メール交換とか、LIEN交換ですよね。もちろん携帯電話もない時代。
この時の、プロジューサーが日本のCM広告撮影のクライアントを数多く持っていたせいで CM撮影が舞い込んでかなり面白い人生が始まったって事です。
当時、1989年は、パリは200年祭でお祭り騒ぎで日本からの撮影隊が、毎日押しかけてくる状況。1週間に1本のCM撮影をキャシュ(取っ払い)でギャラを払ってくれるご時世でした。あのパリで、とにかく、お金に心配なく美しいパリでGFと新生活が叶える事を感じていた毎日でした。

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