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適切な速度で

気の遠くなる痛みに、わたしは途方に暮れた。

それは、「気の遠くなるほどの激痛」というわけではなく、わたしの指先に小さく鎮座する傷だった。
荒れ、ヒビ割れ、
きっと、そういうものの仲間だと思う。
左手の中指の先が、小さく割れている。
およそ、2ミリ。
なぜか、ズキズキと痛む。

痛むことは仕方がない、と諦めていたのだけれど、タイピングが難しい。
絆創膏を貼ってみたけどダメ
角度を変えて5度挑戦したけど、やっぱりダメ。
絆創膏の違和感で、結局タイピングの速度や精度がぐんと落ちる。
マスキングテープを貼ってみたけれど、これだと痛みが軽減されない。

わたしは気の遠くなるような思いで、天井を仰いだ。

繋がっていたのだ、とようやく気づく。
わたしの思考と指先は、繋がっていたんだ。
思考を、適切な速度でタイピングして、ディスプレイに落とし込むこと。
これがわたしにとって、非常に大切なことだったんだ。
そんなことに、今まで気づきもしなかった。
適切な速度を失うと、途端に言葉の輝きも失われてゆくような気がした。

「実は、男友達と歩いているときに、同じ速度で歩くのが難しい」と、母親に愚痴を言ったときのことを思い出した。
「もう少しね、ゆっくり歩いてくれればいいのに」とわたしは訴えた。
背の低いわたしは、きっと歩幅も狭い。
いつも一生懸命歩いて、ハムスターみたいになっちゃう。

「相手もね、ゆっくり歩くと疲れるから」

そんなふうに言われて、衝撃だった。
そうか、確かにそうかもしれない。
“そのときの自分に適した速度”で、各々が歩きたいんだ。
一緒に歩くときには、お互いに歩み寄るしかない。
わたしが早歩きになって疲れてしまうように、相手もゆっくり歩くと疲れてしまう。
わたしはそのことに思いを馳せることができていなかった。
自分の未熟さを呪った。

物事の速度、について思いを馳せる。
そして、”適切であること”の大切さにも気付かされてしまった。

わたしにとって当たり前のタイピング速度は、思考を整理しながら紡ぎ出す絶妙な速度を保っていた。

いまは、指先を避けて、許せる範囲で少しだけ速度を落としてタイピングをしている。
ゆっくりでも、”許せる速度”であれば紡ぐことができるわたしの存在に、またひとつ気づく。

はい、もうこれで気づきと学びは充分。
避けれる痛みは、避けたほうがいい。
起きたら、液体絆創膏を買ってこよう。



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