おとなになるってなんだろう
おとなになるって、なんだろう。
わたしにとっての”おとな”というと、不思議とディズニーランドを思い出す。
子どものころ、何度か連れて行ってもらった。
夢の国の、お兄さん・お姉さんは完璧な存在で、もちろんお仕事中におしゃべりなんかしていなくて、いつも笑顔でピシッとしていて、ずいぶんと眩しかった。
どこか遠くで、「おとなになるっていうのは、完璧になることなんだ」と思ったのを、覚えている。
うすぼんやりと、鮮明さが入り混じった記憶。
母親(家でピアノを教えていた)と、父親(大工だった。現場に連れて行ってもらったりした)の働いている姿を見ながら育ったわたしだけれど
”おとな”というと、ディズニーランドを思い出す。
特別な思い出に、”働く”ということに夢を見すぎていたのかもしれない。
実際に自分が”仕事をする”ということに取り組んでみると、おしゃべりしたり、失敗したり、そんなのしょっちゅうだった。
ぜんぜん完璧じゃない。
むしろ、学校で習ったことなんて、お金の計算以外ほとんど役に立たない現場に飛び込んで、わからないことだらけだった。
そう、
おとなになるっていうことは
完璧ではない、どこまでいっても自分は自分のままなのだ、ということを、思い知ることなのかもしれない。
◆
「あ、汚れてる…」と、遊びに来た母は言った。
それは、さっき晩ごはんで食べた牛丼ではなくて、お昼に食べたというパスタの赤い染みだった。
わたしの思い描いていた”おとな”は、染みなんてこぼさない生き物だった。
そしてそれは空想だ。と、いまでは理解している。
娘のわたしも、当然のようによく染みを作る。
不思議とわたしの周りには、そういううっかりというか、まぬけというか、おおらかな人が多い。
わたしは一時期、しみ抜きを持ち歩いて、何人かの友達を救った。
とある友達はいつも黒いTシャツを着ていて、椅子に沈み込んでブリトーを食べていた。
姿勢が悪すぎて、自分の胸とかおなかに、よくこぼしていた。
「いつでもこぼしていいように、黒いTシャツを着てんだよ」と言っていた。
なんだか、カッコ良いと思った。
今ならわかる、わたしがなりたいおとなっていうのは、こういう感じなのだ。
母親の染みは、常備している「食べこぼし用」の洗剤で落としてやった。
そして母の座右の名は、「転んでもタダでは起きない」だった。
◆
そういえばむかし、染みを作ったり、たまごを床に落としたり
さまざまなことで、よく泣いていた気がする。
人生そのものがヒステリーだった。
あのころは、人生に対する期待値が高かったんだろうなァ
ずいぶんと、こどもだった。
いまは少しだけおとなになった。
生きやすくなった。
あのころよりわかる、わたしの指針がある。
染みを作らないんじゃなくて、
染みを落とせる女。
染みを作っても、泣かない女。
そろそろ、中身が切れそうな「食べこぼし用」の洗剤を、買わなければならない。と思っている。
※お世話になっているシミ抜きたち
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