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おとなになるってなんだろう

おとなになるって、なんだろう。

わたしにとっての”おとな”というと、不思議とディズニーランドを思い出す。
子どものころ、何度か連れて行ってもらった。
夢の国の、お兄さん・お姉さんは完璧な存在で、もちろんお仕事中におしゃべりなんかしていなくて、いつも笑顔でピシッとしていて、ずいぶんと眩しかった。
どこか遠くで、「おとなになるっていうのは、完璧になることなんだ」と思ったのを、覚えている。
うすぼんやりと、鮮明さが入り混じった記憶。

母親(家でピアノを教えていた)と、父親(大工だった。現場に連れて行ってもらったりした)の働いている姿を見ながら育ったわたしだけれど
”おとな”というと、ディズニーランドを思い出す。
特別な思い出に、”働く”ということに夢を見すぎていたのかもしれない。

実際に自分が”仕事をする”ということに取り組んでみると、おしゃべりしたり、失敗したり、そんなのしょっちゅうだった。
ぜんぜん完璧じゃない。
むしろ、学校で習ったことなんて、お金の計算以外ほとんど役に立たない現場に飛び込んで、わからないことだらけだった。

そう、
おとなになるっていうことは
完璧ではない、どこまでいっても自分は自分のままなのだ、ということを、思い知ることなのかもしれない。

「あ、汚れてる…」と、遊びに来た母は言った。
それは、さっき晩ごはんで食べた牛丼ではなくて、お昼に食べたというパスタの赤い染みだった。

わたしの思い描いていた”おとな”は、染みなんてこぼさない生き物だった。
そしてそれは空想だ。と、いまでは理解している。
娘のわたしも、当然のようによく染みを作る。

不思議とわたしの周りには、そういううっかりというか、まぬけというか、おおらかな人が多い。
わたしは一時期、しみ抜きを持ち歩いて、何人かの友達を救った。

とある友達はいつも黒いTシャツを着ていて、椅子に沈み込んでブリトーを食べていた。
姿勢が悪すぎて、自分の胸とかおなかに、よくこぼしていた。
「いつでもこぼしていいように、黒いTシャツを着てんだよ」と言っていた。
なんだか、カッコ良いと思った。
今ならわかる、わたしがなりたいおとなっていうのは、こういう感じなのだ。

母親の染みは、常備している「食べこぼし用」の洗剤で落としてやった。
そして母の座右の名は、「転んでもタダでは起きない」だった。

そういえばむかし、染みを作ったり、たまごを床に落としたり
さまざまなことで、よく泣いていた気がする。
人生そのものがヒステリーだった。

あのころは、人生に対する期待値が高かったんだろうなァ
ずいぶんと、こどもだった。

いまは少しだけおとなになった。
生きやすくなった。
あのころよりわかる、わたしの指針がある。

染みを作らないんじゃなくて、
染みを落とせる女。
染みを作っても、泣かない女。

そろそろ、中身が切れそうな「食べこぼし用」の洗剤を、買わなければならない。と思っている。





※お世話になっているシミ抜きたち
Amazonは値段高いから、お近くのドラッグストアを覗いてね

(持ち運び、会社のデスクに入れてる)

(おうち用。一生お世話になります)




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