いつかを呼ぶ声
久し振りに、仕事を休んだ。
いつもよりほんの少し目覚めが悪くて、「ああ、ちゃんと生きてるなァ」なんて思ったりして
いつも通りの電車に乗って、座って、執筆の手直しやスケジュールの見直し、それからポケモンスリープをチェックして、ポケモンGOでギフトを送っているうちに、あれよあれよとグラグラしてきてしまった。
頭痛、と簡単に片付けるのは違う。
泣きそう、が近いかもしれない。
会社に行けばなんとかなるような気がしたけれど、笑顔で電話に出る自分が想像できなくて、改札を出たところでしゃがみこんでしまったので、仕方がなく帰ることにした。
昨日ちょうど、金の砂時計の話をしたところだった。
会社にいれば、面倒事はあるけれど心地よくお金を稼げる。
チャリーンと落ちてゆく、金の砂。
今日は、諭吉が宙を舞っていった。
けれどもここで踏ん張ってしまうと、ソロ諭吉どころではなくなってしまう。ひどくなる前に、撤退。
もしかしたら、家に帰ったらケロッと元気になったとしても。
「我慢だ」と思う。
朝10時、くだりの電車は空いていて、わたしはどこへでも行けそうだった。飛び立った諭吉のことを思えば直帰するべきだけど、もしそうではなかったら……と考えたけれど、結局目も開けていられずにうずくまる。
働きたかったし、書きたかった。そうじゃなければ散歩のひとつでもしたかった。全部ムリだった。
「我慢だ」と思う。いまは、耐え忍ぶときだと。
「がまん」というわざがある。ポケモンの話だけれど。
アニメポケットモンスターXY&Zは名作で、特にカロスリーグのシーンは、何度も見直してしまう。
準決勝のショータ戦。サトシのヌメルゴンと、ショータのペロリーム。
タイプ相性ではペロリームの圧勝となるところだけれど、引き分けとなったその決め手は、ヌメルゴンの「がまん」だった。
攻撃を耐え忍んで、爆発させるあのわざについて、今日は考えている。
つまるところ、「がまん」をしなければ、ヌメルゴンの勝機はなかったのだと思う。いまのステータスでは、敵わない。だから、「がまん」をする。と思えば、わたしの思うところの「我慢」も致し方がない。という気がしてくる。
「我慢」というと、なんだかやっぱり良い気分にはならなくて、唇を噛んでいるような。連なる感情は「悔しい」と言える。
けれども、今の体力ではもう何もできないから、我慢しかない。ヌメルゴンだって耐えたんだ。と思えば、今日一日を休んでしまった事実だって乗り越えられる。ガラガラの電車で朝日を浴びたって、視界の端を諭吉が飛んだって、せっかく塗ったお気に入りの口紅だって、お昼に食べようと思った煮卵だって。
致し方ない。あるいはそれは、最善なのだ、と。
気がついたら夜だった。
ベッドから動けず、目を覚めることと、目を閉じることを繰り返した。
目をほとんど開けていられず、気がついたら眠っていた。
起きてごはんを食べ、ソファーでうずくまっていることを、懐かしく思う。
以前はそれを「怠惰」と呼んでいたけれど、病気になってしばらくの時間を過ごしてわかったことがある。これは怠惰ではなく、「不調」なのだと。
不調と向き合って、我慢をする。
いつかチカラを発揮するために、
何よりも、この先の人生を生きてゆくために。
こんなふうに苦しさを誤魔化して、乗り越えてゆこうと思っている。
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