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消える百貨店。とりあえず2つの問題②

昨日、2018年に閉店した後、解体が決定している姫路の百貨店について投稿しました。それの続きです。

前回の記事で、僕は次のように書いていました。

しかしながら、仮に僕は解体を受け入れたとして、そこから受け入れられない問題が2つ発生します。

・解体した後の敷地用途は決まっていない→負動産は解体されていない。
・かつての利用者・市民感情の行く先が決まっていない→まちの運営が、お上の決定がただただ実行される昭和式?巨匠従属型経営のまま。

これはつまり、ハードとソフトの問題です。

まず1つ目、解体した後の用途が決まっていない敷地を、僕は「負動産」と表現しています。仮に、あの大きいけれど不思議なアットホーム感のある姫路の商店街に、なーなーになった結果の駐車場や小奇麗なマンション、柵で囲われた更地、ボール遊びさえ許可されない程度の中途半端な公共緑地等が現れることを考えると、少なくとも観光客の僕には残念です。それに加え、駐車所やマンションになってお金が回るのは、姫路市の人口から考えて、一部の地権者、不動産開発屋、建設屋さんたちだけだと思いませんか?そして開発を主導した業者間の悪い意味の繋がりと単発の儲けが、また次の悪い意味の再開発を呼び込む。まち全体にとっては、「不動産」は解体してても、「負動産」は解消されていないのでは?そういう意味の表現です。

次に2つ目の、市民感情、ソフトな面の問題。
これはやはり大事な問題で、なぜなら自分が感情的で、上に述べたような再開発が大嫌いな人間で、そういうことに感情的に反抗してしまう人間はやはり多い、ということを知っているからです。自分のことですから。誰だって、戻れない古き良き過去への、郷愁くらいありますよね?ありますし、いつになってもそこにいてくれる、そんな存在があるからこそ、逆に自分の成長に気が付けたり、原点に立ち返る機会が与えられるワケです。囚われる必要は無いけれど、思い出が形を持って残っていることは、未来にとってより良いことだと思います。
しかしながら現状の解体→なしくずしに再開発方式で、市民がまちの再開発による変貌スピードに、ついてきたり、意見を言ったりする機会が、十分に取られているのでしょうか。取られているなら、申し訳ありませんでした。僕の認知不足です。ただそうでない場合は、まちの運営が、「お上の決定がただただ実行される昭和式?巨匠従属型経営のまま」の可能性があると申したいのです。市民が気が付くのは、議会承認か解体実行がなされたのち。再考を!と言う間もなく、とりあえず現実として、見慣れた風景が変貌する。しかもその後の方針は決まっていない。市民からすれば、自然災害と、起きていることは変わりません。もちろん誰も死傷していないけど。
前回の投稿で、解体は時代に即しているのかも、と発言しましたが、公共物としてのみんなの思い出の風景、という視点に至っていないならば、「現実として、お金が必要だからね」理論の、時代に即した解体とは言えません。縮退の時代と言えど、進歩主義的縮退でないならば、待っているのは死滅です。

またまた長くなって来ました。
もちろんこのままでは終わりません。最後にきちんと、提案まで投稿したいと思っています。提案をチラ見させて、また次回!ということにさせてください!

(20210415)

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※上写真の提案・図版制作には、自分のほか2人の友人が関わっています。

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