日記2020/06/29「お知らせ&作文の思い出」

▼先日のnoteの投稿とか昨日のおわちかでも話した通りなんですが、7月中頃に2度目の卒業試験があります。昨年は色々あって残念な結果に終わってしまったのですが、今度こそちゃんと卒業したいと思っております。実は配信の前に、そのためにちょっとお休みを貰えないか、と相方にお願いしたんですが、一も二もなく「それは休んだほうがいい、というか休め」と言ってくれました。当たり前の事なのかもしれないけど、なんかそれがすごく嬉しかったです。あいつほんと良い奴なんだよね。
 というわけで勝手ながら、2週ほどお休みを頂くことになりました。全国100万人のおわちかリスナーのみなさまにはご迷惑おかけしますが、何卒ご了承ください。

▼今でこそ、こんなふうに毎週ラジオ配信なんてやるほどおしゃべりしてゲラゲラ笑うのが好きになったけど、昔は本当に音声言語でのコミュニケーションが苦手だったんですよね。相手の意図とかが正しく汲み取れないし、適切な話題とか表現もわからなくて、しかもあがり症だからクラスメイトと話すだけでも変に緊張してしまう子どもでした。
 特に小学校の頃なんかは人と会話をすればとにかくトラブルばかり起こして、俺はほんとにダメな奴だなと思っていました。今もそういうところあるけどな。

▼そんな自分が褒められる数少ない場面が、作文の時間でした。特に読書感想文。立派な事を書こう、ためになることを言おう、みたいな気持ちはあんまり無くて、むしろ元々本が好きな上に先述したような理由で友達ができなくて、休み時間も本を読んでいるような子どもだったから、ただただ自分の好きな本について、魅力やそれを読んで自分の考えた事を書き散らしていたように思います。僕の感想文を読んで、大好きだった先生が「これはいいね」と紹介してくれたり、普段は僕のことを気味悪がっている人たちが「すごいな〜」なんて顔をするのが内心得意でたまりませんでした。
 だから周りが「読書感想文なんてつまんねえ、国語の時間ぜんぶ体育にしてほしい」なんて言ってる中で、ひっそり楽しみにしていたのです。そんな子どもでした。

▼話は変わりますが、小学生のころ市か区が主催していた蛍の鑑賞会があって、毎年家族で見に行っていました。併せて子どもを対象に感想文を募集していたんです。
 小5くらいの時、例年通り会に行って、蛍のうすぼんやりとした瞬きに感動していた僕に、親が「感想文出してみなよ」と言ったんです。それじゃあ、と用紙を貰い、結構な長さの感想文を書いてその場で投稿しました。
 それきり忘れてしまっていたある日、役所から僕宛に封書が届きました。僕個人宛に役所から手紙が来るなんて生まれて初めてだし、親も心当たりが無いと言います。これ何だろうね、と開けたところ、「素敵な感想をありがとうございました」というようなお礼状と500円分の図書券が入っていました。変な顔をする両親をよそに、やった、これでまた本が買える、とひとりはしゃいだのを覚えています。

▼数年経ってから気がついたんですが、あれおかしいんですよね。賞品が貰えるなんてどこにも書いてなかったんです。親に訊いてみたら、実は当時親も気になって役所に問い合わせたらしいんですよね。そしたら、「ちょっとこっちが想定している子どもらしい感想文ではないが、ただ内容はすごく良かったから、特例として図書券をお送りしました」と回答があったということでした。
 
▼大人になった今、改めて振り返ると、素敵というか、ありがたい事だなとしみじみ思います。もちろん他にも色々なご縁や理由がありますが、あの時褒めてくれた先生や同級生、それから役所の担当の方のご対応があったから、今に至るまで僕は(下手の横好きですが)こうして文章を書き続けられています。

▼なんか今、「読書感想文なんて要る?」みたいな議論がTwitterで拡がってるらしいですね。確かにいいこと言おうとする、言わせようとする現行の(昔からの)感想文のあり方には僕も辟易としますが、たとえば読書感想文、ひいては作文を不要として小中学校でやらなくなったら、昔の自分みたいな子がどうなるか、その後どう育っていくのか想像もつかないです。リコーダーでも図画工作でも家庭科の裁縫でも何でもいいんですけど、そうやって「これなんの役に立つの?」を次々除外していったら、それを大切な自己表現のツールにしている子はどうなっていくんだろう。わかりません。

▼ただ少なくとも、noteにだらだらと思い出話を書き連ねるような大人にはならないでしょうね。ならないほうがいいのかもしれないが……。

▼寝る。

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