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第二希望の人生

こんにちは。久々にリフティングを始めて尻の筋肉が痛い半顔です。

大仰なタイトルを付けましたが、要は私の部活遍歴です。

学生時代にサッカー部に入ることは叶いませんでしたが、
さりとて帰宅部でぶらぶらしていたわけでもありません。

中学:鉄道研究会

確か入ったのは入学後かなり経ってからだと思います。

まあ、本音で言えばサッカー部が難しくてもせめて運動部に入りたかったわけですが叶わず、未練が断ち切れない私はしばらくプラプラしていました。

実は1年生の時の担任が熱血教師で、運動部に入らない私を運動部に入れるよう、うちの親とも掛け合ってくれていたらしいのです。まあうちの親はあんな調子なので最終的には先生のほうが折れてしまいましたが…

ここでもう一押ししていれば、その後の人生は変わっていたと思います。
(少なくともnoteで愚痴を垂れることはなかったでしょう)

一方で私の鉄道好きは周知の事実として知れ渡っており、鉄道研究会からも何度かラブコールがありました。当初は運動部をあきらめきれない気持ちが勝っていたのですが、いつまでもプラプラしてるわけにもいかないと思って結局入部しました。

で活動実績といえば…特に思い当たりません(笑)

図書室を主な活動の場としていたのですが、書架に(当時から見ても)かなり年季の入ったサッカーマガジンが大量に置いてあったのを覚えています。誰かが寄贈したんですかね。

文化祭でスライド上映の進行役を買って出たのですが、この経験が生きてその後大人数の前で「演説」することに割と抵抗がなくなったと思います。会話の輪に入るのは今も相変わらず苦手なのですが、一方通行の演説であれば、それこそ埼玉スタジアムでのホーム最終戦セレモニーでも動じずにしゃべる自信はあります(笑)

そのくらいですかねえ…あとは図書室の書架に後輩を寝かせて全身をくすぐってC寝台ごっこをしたとか。
要は某光画部並みのゆるい部活だったのです。

上下関係もほぼ皆無で…むしろ運動部の上下関係にあこがれてたくらいですよ。

そういえば三年生の時に入ってきた一年生のうち何人かは少年サッカー経験者だったような
鉄道とサッカーを両天秤にかけて鉄道を選んだということでしょうか

なお剣道部に妙に鉄ヲタが多く、合体して鉄道剣道部を作ろうなどという冗談が飛び交ったことがあります。


高校:合唱部

ここでもサッカー部への潜入に失敗した私は、さてどうしたかといえば…
小学校の時は学校行事で何かと音楽系には縁がありました。そこへ合唱部の勧誘にあい
「信州で合宿があるよ」
これに釣られて入ったような気がします(笑)

しかし入部してまもなく驚愕の事実を知ることになります…

男性の顧問が合唱部とサッカー部の兼任だったのです。

だからといって顧問の先生は基本的に練習に顔を出さないので何があったというわけでもなく、ここで一発逆転人生とはいきませんでした。

部活自体は普通に充実していて、やっと部活らしい部活に巡り合えたという感じでした。

また、合唱部で習得した発声法は、その後のゴール裏ライフで大いに役に立ちました。
「半顔さん声きれいですねえ」と言われたときは合唱やっててよかったと思いましたね。
しゃべるときはボソボソしてるんですけどね(笑)

一度「ボイストレーナー」という方を講師としてお呼びしたことがあります。
その場で手ほどきを受けたら自分でも本当に信じられないほど大きな声が出て、周囲ともども驚きに包まれました。
GKのように声が枯れるほどコーチングを行うポジションの人は一度ボイストレーナーの手ほどきを受けるといいと思います。いやマジで。

「禁句」という制度があり、部活中に夏は「暑い」「疲れた」(冬は「寒い」「疲れた」)と口走ると5円徴収されます。合宿中はさらに進んで「あつ」「つか」がついた言葉は問答無用で禁句になります。「あつかう」などと口走ったが最後、二重禁句とみなされて10円徴収されます。

集合するときも「あつまれ~!」だと禁句になるので自ずと「集合~!」と声掛けをします。闘莉王さんは気を付けましょう(笑)

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こちらは夏合宿中のタイムテーブル。左側はたぶん俺の字です。
合宿につられて入部したからには責任を果たさねばと思い、合宿マネージャーというものを務めておりました。
合宿最終日の夜はなぜか徹夜するという伝統?があり、翌朝の散歩で歩きながら寝るという特技を会得しました(笑)

大学:鉄道研究会

ここで再び鉄の道に舞い戻ってしまいます。

そもそも大学の志望動機からしておかしかったのです。

某鉄道趣味団体(友の会ではない)の月刊の会報があり、そこで執筆している面々が面白そうな人ばかりで、その方々が所属していたのがこの大学の鉄道研究会だったという…
鉄研を志望動機にする奴なんて、他にいます?

もはやサッカーは関係ないから進路なんて適当でいい、という投げやりな気持ちもあったかもしれない。

ただこちらの鉄道研究会は中学と違って充実していました。旅に重きを置いていて、活動範囲が一気に広がりましたね。全国を回るようになったのもこの頃です。

しかし上には上がいて「活動内容が生ぬるい!」という理由で割と早期に退会してしまった一年下の後輩がいました。彼はその後成長し、鉄道ピクトリアル等(鉄道雑誌としては老舗の大手)に旧型客車の形態分類についての寄稿をするほどまでのガチ勢になっています。

・武蔵野満喫 50kmハイク

なぜか一年生は秋の学祭で行われる50kmハイクに参加するという伝統がありました。
夜の大学を起点に、概ね新青梅街道→国道16号→五日市街道経由で明け方の大学に戻ります。
でこのコース、よくよく調べてみると東京ガス武蔵野苑(FC東京の練習場)の脇を通っているんですね。もちろん当時はFC東京は影も形もなかったわけですが。

夜の武蔵野というものを満喫できたのは今思えば貴重な体験でした。
生まれ育った横浜とは空気感が違います。
夜中の東村山→箱根ヶ崎とか、今でも歩いてみたい気になります。
あの頃と景色変わってるのかな。近々モノレールが伸びてくるようですが。
一度に踏破した距離としては人生最長、この記録が破られることはもうないでしょう。

しかし帰宅時についに足が棒になってしまい、井土ヶ谷駅の階段を這って降りる羽目になりました。普段運動していなかったツケがこんなところで出るわけです。
毎日たくさん走って沢山足を動かしてるサッカー部員たちを改めて尊敬します。

・駅寝で迎えた二十歳の朝(鉄研夏合宿)

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左の看板のオールドボーイサッカー島原大会が気になる…(島鉄・島原外港駅)

1年のときは九州でした。高千穂の宿へ向かう途中、部員数人で南阿蘇鉄道の終点立野駅の喫茶店へ。私は高菜ピラフを注文。「高菜」という食べ物をこの時初めて知りました。
食後、店から出て数歩歩いたところで

「おい誰だ金払ってねえのは」

俺だわ…

危うく無銭飲食で捕まるところでした(汗)


2年の時は山陰で、合宿期間中に20歳の誕生日を迎えました。記念すべきその日の朝に私がいたのは…

まだ地平だった出雲市駅の待合室で駅寝(駅員公認)。

さらに明け方に地元の刑事達が待合室に立ち寄り「男がここに来ませんでしたか?」と聞き込みに来て起こされました。なかなか劇的な成人ライフの幕開けでした(笑)

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背景の日御碕国民宿舎、二度目に訪れたときは解体工事の真っ最中でした…


3年の時は北陸でした。集合場所は宿のある石動駅。

私はその日の昼、福井で京福電鉄(当時)を乗りつぶしていましたが、ここでトラブル発生。
落雷で信号故障が発生してしまい、車内に缶詰め。石動駅の集合時間に間に合わないことが確定してしまいました。

当時は携帯電話なんてないので、おそらく福井駅の公衆電話から石動駅に電話して、集合時間に間に合わない旨の伝言を依頼。駅では「○○鉄道研究会の皆様、半顔様からご伝言が…」と呼び出し放送が入って大変恥ずかしい思いをしたと部員一同から苦情の雨あられでした。

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旧型車が現役バリバリだったころの浅電(北陸鉄道浅野川線)

第二希望の人生

以上が私の学生時代の「第二希望の人生」です。
たいした思い出ないだろと踏んでたんですが、文字に起こすと結構なボリュームになりました。

「とてもサッカー部に入りたかった人間のする部活じゃないだろ」という突っ込みは甘んじて受けます。中学の時点で既に人生の軌道は大きく逸れていたというわけですね。

それで何が身についたの?と問われると、正直あまり実感がありません。
発声法とプレゼンの度胸、旅行のスキルくらいですかねえ。
人間形成という点で問われると、これはもうサッカー部の皆様の足下にも及びません。

では楽しくなかったのかと言われればそんなことはない、大いに楽しみました。
でもそれだけでなくて、苦しいこととか喜怒哀楽もっといろんな経験をしたかったんです…

小中高大とサッカー部で頑張ってきた人から見たらどうなんでしょうね、こういう人生。
まあ同じような人生を歩んでみようとは思わんでしょうな。
別世界の出来事のように映るのではないでしょうか。お互いに。

最後までやり遂げた人はともかく、サッカーを途中で挫折してしまったような人から見たら、こういうお気楽な人生がうらやましく感じたりするのかなあ。
よく分かんないや。

自分の部活遍歴を書いたのに、結局一番たくさん出てきた単語はサッカーではないか…

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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