黄色い放火魔 / 街角の小さな違和感(5)

  共通の知人のお別れ会に参列した後、僕たちは故人がよく立ち寄った喫茶店で珈琲を飲むことにした。彼女はハッカ味の煙草と深煎りの珈琲が好きだった。
二人の前に、彼女が飲んでいたものと同じブレンドが置かれた。マスターも僕らが彼女のお別れ会に参列してきたことに気付いたようだった。
コーヒーカップを小さく上げると、僕らは苦い珈琲を口に運んだ。
「ある意味、潔い死に方だったのかもね」
「うん」
「鮮やかだった」
「そうだな」
僕たちはポツポツと彼女の思い出を話した。
彼女と知り合った時期は多少ずれていたが、ほぼ一緒だったし、お互いとも結構長い間友人だった。
「さっぱりとした気性だったよ」
「そう、サバサバしていた」
僕は、彼女の遺体を安置してある自宅に弔問したことを話そうかどうか考えていたが、結局話さなかった。自分がより懇意だったと話すようで気が引けたのだ。
僕は弔問した時、彼女の好きだった珈琲豆を一袋持参し、遺体に手を合わせた。遺体の彼女は死体役を演じているように見えた。全ては劇中の出来事なのだと、僕は思った。
彼女の遺体が安置してあるリビング・ダイニングのテーブルで、僕は彼女の夫と向き合って珈琲を飲んだ。珈琲は彼女の所属する劇団の若手が淹れてくれた。そして珈琲を僕たちの前に出すと静かに奥に下がった。まるで、古いロシア演劇の賄い婦のような動きだった。
僕たちは、特に何も話すことはなかった。彼女の夫は、皮膚がカサカサとして、十歳は老け込んで見えた。遺体に初冬の午後の陽射しが差して、弔問客の届けた花に囲まれた彼女は居心地が悪そうだった。
リビングからキッチンが見え、食器戸棚に整然と並んだ焼き物の器が見えた。器の数は相当なものだった。まるで、テレビに出る料理評論家の自宅のようだった。
家庭的な人だったんだな、と思った。器があるということは料理するのも好きだったのだろう。
改めて、故人のプライベートなことを何も知らないことに気付いた。
彼女は舞台女優だった。テレビや映画にも時々出たが、基本は舞台だった。
この大量の器を夫はどうするのだろう……。僕は悲しみに暮れ、呆けたような夫の顔を見ながらそんなことを考えていた。永遠に料理が盛り付けられることのなくなった器を見続けることは、どれほど悲しいことだろう。
 
僕と友人は珈琲を飲み終えた。
「もう一杯、飲みませんか?」
腰を浮かせようとした時、友人が言った。
「いいですよ」
僕は座り直し、マスターに合図して同じものを頼んだ。
友人は別のことを話したかったようだ。
近く『バーニング』という映画が公開される。韓国の巨匠が撮った作品で、村上春樹の短編『納屋を焼く』が原作だが、もう見たか?と友人は言った。
僕は雑誌で映画評論のコラムを書いている。だから、試写会で見たのかという意味だろう。
「見たよ。僕はとてもいい映画だと思った。深いところで、原作者の世界観を映画化していると思った。いつものイ・チャンドン監督作品とは系譜が違うような気がしたな」
「そうですか。僕はまだ見ていないんです。映画館で見るつもりです」
「きっと、君なら気にいると思う」
「そうですか。それは楽しみだな」
友人は少し微笑み、唇を舐めた。昔からの癖だ。そして、話し始めた。
「実は、あの小説と同じように僕も放火を告白されたことがあるんですよ」
僕は驚いて、友人の顔を見た。
「本当に?」
「ええ、随分前のことです。今まで誰かに話したことはないんだけど、15年近く前の事だから、もういいかな」
「そんなに前の事なんだ」
友人は、かつてCMディレクターをしていた時期があった。
「撮影現場で、広告代理店の若いプランナーに突然言われたんです。僕、放火をしたことあるんです、って」
「へぇ」
それは、風邪薬のCMの撮影で、アイドルタレントを起用したとても中身のまったくない企画だったと、友人は言った。
住宅街を歩いていた風邪を引いたサラリーマンやOLに、マスコット役のアイドルが風邪薬を勧めるのだ。
「毎年、そんな風なCMって流れるよね」
「ええ、進歩しないものも世の中にはありますね。毎年、毎年、同じような内容のものを作り、気がつくとタレントだけが変わっているみたいな。その時も、内容が内容なんで、まぁ、スタッフもそれほど乗っているわけでもない感じで、淡々と渋谷区の住宅街で撮っていたんです。お仕事モードってやつです。特に揉める箇所もなく、午後の3時過ぎには終わりそうでした。最後のカットを撮るか撮らないかくらいのタイミングで、モニターの前にいた僕のところに、彼は寄ってきたんです。僕、以前、この辺り住んでいたんですよって。へぇ、そうなんですかって、普通に相槌打って。その仕事で初めて彼とは会ったんです。広告代理店のプランナーのメイン担当でもない人って、そんなに話すことないじゃないですか。かといって雑に扱うわけにもいかないっていう、まぁそれぐらいの距離感だったんです、彼とは。そしたら、突然、打ち明けてきたんです。僕はこの辺りに住んでいた時、放火したことがあるって」
「なるほど」
僕は珈琲を飲んだ。さっきまでと少し味が変わったような気がした。
「そんなこと撮影中に言われたって困るじゃないですか。その話に真剣に耳を傾けるわけにもいかないし」
「そりゃそうだね」
「だから、つい口をついたのかもしれないけど、それって犯罪じゃないの?って言ったんです。そしたら、彼、そうです。犯罪ですって言うんです。でも、ボヤで済みましたって平然と言うんです。僕、こいつどうかしたのかなって思って、撮影終わったら話そうよ、って言ったんですよね。それで、最後のカットを撮り終えて、みんなが機材の撤収してる時に、お茶場の薄いコーヒー飲みながら聞いたんです。何を燃やしたの?って。そうしたら、物置きですって言ったんです。古いアパートの敷地内にある掃除用具とか入れておくような小型の木製の物置きだそうです。新聞紙をよじって、ライターで火をつけて、ポイッて……。枯れた下草が燃えて、徐々に物置に燃え移って……その後は現場を離れ、遠くから監視していたそうです。物置きはちゃんと燃えたのか、どうかって。そんなのに火を付けて木造アパートに燃え移ったら大変じゃないですか。でも、そういうことには関心がないような、なんていうかすごく無責任な口調で言うんです。こいつやばい奴なのかって顔を見直しちゃいました。でも、彼の顔、もう思い出せないから、どこかですれ違ってもわからないでしょうけどね。ただ、黄色いマウンテンパーカを着ていた。それだけは覚えているんです。……今日のお別れ会、祭壇が黄色い花でいっぱいだったじゃないですか。彼女黄色い花好きだったっけ……そんなこと考えて手を合わせていたんです。そしたら、頭の中で急に放火のことを言い出した、彼のこと思い出してしまって。連想ゲームみたいなものでしょうか。僕は、彼の顔も声も思い出せないのに、話の内容と彼の後ろ姿は覚えているんです。撤収が終わって、現場で別れるとき、彼、言ったんです。これから現場を見てきますって。自分が放火した現場を何年もしてから、また見に行くって、どんな心理なのでしょうか? 図々しいのか小心なのか。そもそも考え方が軽いのか……。それが印象的だったな。うん、そう。なんかすごく軽く言われたんですよ。これから、また見に行くって。すごい違和感感じました。放火した後も、つまり彼の言うボヤが消し止められるのを野次馬に混じって見ていたそうです」
そこまで話すと彼は煙草に火を付けた。
「すいません、なんか変な話しちゃって」
「いや、全然。変な奴がいるもんだなって」
「ほんと。僕もそう思います。電車に乗ってると、もしかしたらこの中のなんでもない顔をしたサラリーマンの中にも放火犯がいるのかなって、しばらく考えるのが癖になっていましたから」
「黄色いマウンテンパーカ」
「はい、そうです。間違いありません」
「疑ってないよ」
友人は、目だけで微笑んだ。
僕は、その男はそれ以降も放火を繰り返したような気がした。毒にも薬にもならないつまらない風邪薬の広告を作りながら、それでもクライアントに何かを提案しなくてはならなく、そのアイデアに行き詰まった夜にこっそりと男は住宅街を歩くのだ。
僕には、薄暗い住宅街の外灯に照らされた黄色いマウンテンパーカを着た男の後ろ姿がぼんやりと見えた。
「あの小説とは違って文学的ではないけど、なんて言うか闇深いね」
「ええ。そうなんです。放火をしましたって告白されるのって、当たり前ですがあまりいい気持ちがしませんね。それに何かを暗喩してもいない」
友人は苦笑した。その時、取るべき態度を取らなかったことを後悔しているようだった。しかし、何年も前の放火を突然告白されたところで、いったい彼に何ができただろう。誰も死んではいない。ただ、古い物置きが燃えて無くなっただけなのだ。
「その彼は、君に話したことで救われたのかもね」
「そうでしょうか」
「きっと、そうだよ」と僕は適当なことを言った。
でも、彼は救われていない。救われようともきっと思っていない。ただ、話して、友人を困惑させたかっただけだ。そういうタイプの人間を随分と見てきた。悪意ですらない。ただの邪気だ。とても無自覚な。
僕たちは黙って珈琲を飲み続け、やがてどちらからともなく席を立った。
「僕が払います」
友人は言った。
「うん、ありがとう。じゃあご馳走になるかな」と僕は言った。
「彼女は、黄色い花が好きだったんですね。僕は知らなかった」
「僕も知らなかったよ」
「長い間、友達だったけど、知らないこといっぱいあるんだろうなぁ」
彼はツイードのコートに腕を通しながら言った。
「それが大人になってからできた友達というものじゃないかな。それでいいんだよ」
友人はコートを半分着たまま、それについて何かを考えているようだった。
 
彼女の祭壇に前に立ち、献花をする黄色のマウンテンパーカを着た男の後ろ姿が見えたような気がした。祭壇には無数の黄色い花が供えられている。
そして、線香に放火するようにして故人を偲ぶのだ。
 
彼女は、舞台女優として最後まで華やかに生きて、散った。
見事な生き様だった、と改めて思った。
 
 
                                   
 

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