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So Zou する人

楽しく生きよう。

ふとした時、朝の空気を吸い込んだり、心が満たされるイベントでの刺激を受けたそのタイミングで、頭、心それらに引っかかったものが伝えてくるメッセージのようなものだろうか。

楽しく生きるということ、それを自分ごととして少し掘り下げて考えてみた。どんなことが必要になるんだろうと。

少なくとも自分の「外と内」という2つの自分を構成するフィールドのことを考えておくのが良いと思う。 外のことに目を向けて 周囲への感謝。
そうするのは私がここにいると言う事実をこれまで支えてくれた人の信頼や期待と言ったものからなのかもしれない。

思いを巡らせると祖父と両親。
パートナーがいて、義父母とその祖父。
はたまた、経験浅い私を親と思ってくれる子供がいて、記憶は無いけれど、祖父母へ愛を注いだ先祖がいて。

家や家族を離れても、血のつながりは無かったとしても、たまたま巡り合った友と言えばいいような人たち、教えを乞うことができる師たち。

楽しく生きようとする時に、連綿と続くつながりが、私の周辺を包み、向かうべき道のりを指し示してくれる。

また、出会ってはいない、出会うことが無かった人たちも私の中にはあって、豊かな映像を与えてくれる。その人たちを芸術家と呼ぶかどうかは置いておくとしても、彼らが残したものが後世にも誰かの心に栄養を与えてくれる。

誰かから受けたものは自身を経由して、次へつなげていくように活動していく。

私は私。この心のフィードバック

学生の頃は部活動でテニスをしていたんだけれど、朝に練習をする時や合間時間はパートナーではなく壁とのラリーを行っていた。 壁と自分とラケットの間を行き交うテニスボール。

流れるような筋肉の緊張と移動、腕と掌の延長の先で絡み合うガットがボールを包み込む打点、とその視点の先にある少し先にボールが着地する場所。そしてその繰り返し。

反復する作業が単純であれば単純であるほど、思考はその作業自体のハンドルを手放し、目の前のことを離れて別のことを考え始める。会議中ふと浮かぶ別トピックのこと。誰かと話しているのに頭の中は別のサムワンとのことを思い出す。便利で不便なアンテナが活動的になることは多いなって。

ブッダは長年の修行に際して、マーラという欲の化身と戦い、そして勝ち越すことができたそうだ。人の3大欲求プラスアルファはずっと伴走していくんだと思いますが、ほんまかいな、と。自分であっても、ほんまかいな?と問いかけることは必要でしょう。

反復、繰り返す日常を永遠と思って、諸行無常を忘れて、身体の楽しみを中心に耽りがちでは、人生はとても短い。

私を包む人たち、さまざまな刺激の中で乱反射する私。それらの関係の中で交わされる目には見えないものが意識の中には含まれていて、1人ではたどり着けないような世界の詳細を教えてくれている。

私の瞳を通して見ている世界はいくつもの表情をしており、良くも悪くも質問を投げかけてくる。
あなたならどうする?
受け取った後にどんな答えを返すかで、その後の風景が変わっていく。

何か見せようとして今この風景を示しているんだろうと思うと、その問いかけに精一杯のいまを作りたいと誰しもが願ってる。その願いの塊が新しい展開を示していくんだろう。

何百の関係性をつなぎ、与えられたいまをどのように生きるか、そして、世界をどのようにしてつなげていくか、途方もないような時の流れを意識するとその手、その目の先に光のようなものが作られて。

それを未来と呼んだり、あるタイミングでは続く線の中に美しい軌跡が幾通りも描かれていく。

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