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アッローラ、ケ・コーサ・エ・クエスト?(さあ、これはなあに?)

4才の時、埼玉県からイタリアのローマに引っ越した。フィウミッチーノ(レオナルド・ダ・ヴィンチ)空港で、先に単身赴任していた父親の姿を見た時、駆け出したのを覚えている。本当は入国の手続きかなんかで、列に並んでなければいけなかったはずだ。父はまだ来てはいけないと咎めた気がするが、笑顔だった。

タクシーで夜のローマ市街へ向かった。運転手が陽気な外国語で話していた。距離があるので稼げて上機嫌だったのかもしれない。僕も恐らく興奮と疲れと意味不明な言葉でテンションが上がっており、運転手の一語々々にゲラゲラ笑っていた。半ば意識的に。
下町トレステヴェレ近くの住宅街のアパートに着いた時、飲んだコカコーラが美味しかった。暗い照明、畳が無く、靴のまま…。これがローマ初日の記憶である。

最初に覚えた言葉は「アッローラ」だったように思う。テレビでしきりに言っていたのを聞いていたのか。アッローラ、アッローラと繰り返してみていた。Allora。「さて」「では」という意味は分かっていたか自信はないが、今となってはローマでの生活の出だしにぴったりの言葉で始めたなと感慨深い。
「さて、ローマヘようこそ。」

カトリックの幼稚園に通い始めた。まだ車もなかったので、恐らく母に連れられてバスで通ったようだ。75番、という路線バスの番号をなぜか今でも覚えている。
ドットリーナ・クリスティアーナ幼稚園は、今思えば暗い回廊があり、修道院のような雰囲気だった。保母が全員教会のシスターの格好をしていた。黒い修道服に黒いベール、白く映えるウィンプル。そして、十字架、十字架、十字架。シスターの表情はなぜか冷たく、子供への温かい眼差しとはいかなかった。青い瞳、深い彫り。「異国」を否が応でも味わわされた。

幼稚園は昼ごろに帰っていたように思う。だが他の園児たちの一部は、日課が終わると食事をしているようだった。何かおかず?のようなものを持って、「マンジャ・スクオーラ(学校で食べる=給食)」と言ってどこかに消えていった。僕はマンジャ・スクオーラが気になって仕方がなかった。しかしイタリア語はまだ雲間から時々差す日光といった程度の理解だったので、自分から言葉を発せずに過ごしていた。ある日、勇気を振り絞って、マンジャ・スクオーラを決行しようと思い立った。
ある日、日課が終わると他の子の後についていった。みんな小さな手提げかばんを持っている。僕も持っている。大丈夫だ。シスターが怪訝な顔で訪ねてきた。
「マンジ・ア・スクオーラ?」
僕は答えた。
「マンジャ・スクオーラ」
シスターは僕のかばんを開けて覗いた。何も入っていなかった。おかずがないのだ。マンジャ・スクオーラ挑戦は失敗に終わった。

一年はこんな調子で過ぎた気がする。しかし僕はイタリア語を着実に覚えてきていた。これはテレビの影響が大きいと思う。ある日、チャンネルを回したら、日本のアニメ「UFOロボ・グレンダイザー」が放映されていた。主人公のデューク・フリード」がイタリア語を話していた。でも映像は日本で見ていたグレンダイザーだった。キャンディ・キャンディ、ルパン三世、グレートマジンガー、宇宙戦艦ヤマト…。僕の初見は全部イタリア版である。主題歌はイタリア語でメロディもオリジナルだった。しかしたまに挿入歌で懐かしい日本語も聞けた。日本のアニメは秀逸で、シチュエーションと描写だけで展開がわかる。こうして僕のイタリア語習得は上達していった。

それでも幼稚園では僕はイタリア語を話さずにいた。入園した頃の孤独感はかなり薄まり、教室唯一の東洋人として、園児も保母も僕の下の名前を呼び、受け入れてくれていると実感できるようになっていた。それに甘えていたのかもしれない。わからない振りをしている方が楽だったのかもしれない。

それはある晴れた陽射しの気持ちよい日だった。子どもたちは幼稚園の庭で木の実やらを拾ったり走り回ったりしていた。僕もすごくのどかな雰囲気にリラックスしていた。二人くらいの園児が何か草の中から見つけていた。僕もしゃがみ込んだ。僕も入りたい。一緒に遊びたい。指を指した。思わず口から自然に出た。
「ケ・コーサ・エ・クエスト?」

大騒ぎだった。二人は僕の声を聞くなり走り去った。そして交互に叫んだのだ。
「○○ア・デット・イニタリアーノ!(○○がイタリア語しゃべったぞ!)」
二人は保母に知らせに行ったのだ。僕がイタリア語で話したのが嬉しくてたまらずに。
みんな笑顔で僕のことを見ていた。僕は恥ずかしくて何も言えなくなってしまった。でも僕も笑顔だった。みんな待っていてくれたのだ。なんていい人たちなんだろう。はにかみながらも、温かい開放感で僕は満ち足りていた。

これが僕にとってイタリアが異国でなくなった瞬間だった。

#エッセイ #イタリア #自伝 #語学

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