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“怒ってはいけない”に関連するあれやこれやについて考えてみた備忘録

お久しぶりです。
ちょっと長文の投稿です。

バレーボールやバスケットボールの「監督が怒らない大会」が話題で、僕はさまざまな競技でこんな取り組みが進めばいいなと思っている。

ただ“怒らない”という言葉だけでは整理しきれていない部分があるのではないかと思って、もう少し考えてみた。

良い“怒り”はあるのか??

「怒り」にはネガティブなイメージが付き纏うが、すべての「怒り」がダメなわけではないだろう。喜怒哀楽って人間の感情の基本だもの。

不動明王は憤怒の表情をされているが、これは救済が難しいとされる煩悩を抱えた人間も力ずくで救おうとしているからである。誰一人見捨てない決意の現れなのだ。

「怒り」とほぼ同じ意味の言葉に「憤り」がある。義憤は社会悪を打ち倒したり、偉業を成し遂げる原動力になるかもしれない。『史記』を著した司馬遷は、「憤り」によってその困難な執筆活動をやり遂げた。

“怒る”ことで時に大きなエネルギーを生み出すことがあるのは間違いない。ただ、不動明王は慈悲深さの極みであるし、司馬遷は身体を損なった極限状態でたどり着いた精神状態だ。

普通の人間には適切に“怒る”ことなんて出来やしない。日常生活で人間が人間を指導するのに適切な“怒り”を処方するなんて、とんでもなく困難なことだと思う。

たぶん、無理。

なので、僕が怒るとしたら、それはもはや指導ではない。一個人として、自分の感情をぶつけているだけだと意識することにしている。

ただ、無関心よりはずっといい。


緊急避難としての“怒り”

学生時代に、小中学生の帰国渡日生徒の交流会にボランティアスタッフとして参加していたことがある。
そのイベントで、大学の野外活動研究室の教授の指導のもと、アスレチック体験をする機会があった。
途中、軽く崖っぷちっぽいまあまあ危険なルートを通る箇所があった。
僕はいつもの調子でゆるく「ここ、危ないから気をつけてねー」と声をかけていた。
ところが、そこに怒号が…
「そんな声で危ないのが伝わるか!」
周囲の参加者たちに緊張が走ったのでした。
僕はなんや理不尽やな…とポカンとしていると、中学生の女の子に「ドンマイ、先生はちゃんと頑張ってるよ」と慰められたのでした。

この時の経験はとても不愉快な記憶だけど、割と危険なポイントで、日本語の理解が十分ではない小中学生に注意喚起するには効果的だったように思う。
僕も現在、他人の人権を侵害したり、暴力など緊急に止めさせなければならなかったりする行為については意図的に怒鳴ってでも止めることにしている。

“怒り”を発動する線引きは非常に難しい。

多くの場合、声を荒らげなくても、きちんと説明すれば伝わるからだ。残念ながら仕事量や制度上の不備のため、きちんと説明したり話し合ったりする時間や余裕が教師にも生徒にも、ほとんどない。
教員の持ち時間を半分に減らして、学校内にカフェを併設して、教師と生徒が同時に購入して飲み終わるまでディスカッションしたら無料になるみたいな自動販売機を作って話し合いが頻発する枠組みを設定したとしたら、なんかいいかもしれない。意味ないかもしれない。


“叱る”ならいいのか?

「叱る」という言葉で「怒る」と区別することがある。感情に任せて怒るのではなく、冷静に叱る説教ならいいのでは?
SEKAI NO OWARIが紅白で「habit」を歌っていた。説教するってぶっちゃけ快楽という歌詞。
いやこれほんと、説教の快楽の恐ろしさと中毒性を教員は日々感じているんじゃないだろうか。(感じずに怒鳴っている人もいるかもしれない…)
「俺は生徒のためを思って叱ってやってるんだ」と酔いしれてしまう。

逆に「叱りたくないけど、叱っとかへんかったら周りにちゃんと指導してへんと思われるかも…やばい」と形だけ叱っちゃうということもあるかもしれない。

正直に言います。
僕は両方ありました、あります。反省。

“叱る”のも科学的には、行動変容や成長促進のためには根拠がない手段らしい。このあたり詳しく知りたい人には、村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店2022)をお勧めする。
学校や教室での不適切な指導については、川上康則『教室マルトリートメント』(東洋館出版社2022)にも詳しい。

“怒る”も“叱る”も、対象生徒への指導効果はないし、むしろ周囲への悪影響が大きい。
保護者の“叱り方”も子どもへの影響はとてつもなく大きいが、語るには僕自身の体験がまだ足りないので、それはまた別の機会に。


生存者バイアス

“叱る”ことによって成長した生徒がいる、という事実は否定しない。(体罰もまた同じ。)本当に職人技で、適切なタイミングで適切な“叱り方”によって、劇的な変化を生み出す指導者もいる。
(ある意味でその指導者は宗教的な信奉を集めて素晴らしい結果を出すこともある。)

だが、それこそ生存者バイアスがかかっている可能性がある。その背後に数多くの挫折者、脱落者がいたことを忘れてはいないか?そもそもその指導によって、ハンドボールに接する機会を喪失している潜在的な選手はいないか?

チームでは中学入部時からの6年間で全員がポジティブに引退を選択するかと言われるとそんなことはない。
実際活動してみて活動頻度や学校生活のイメージと合わなかったいうミスマッチの例や自分なりの早めの区切りというポジティブな例もあるが、もちろん僕個人の指導と合わない例もある。
正確に数えた訳ではないが、少し多めに見積もって2割くらいは途中退部という感じだ。(チームの指針として、引退のタイミングは各自の判断で自由としているが、最近は高2以前の引退は実質的に活動や指導に合わなくての退部ではないかと思うことにしている。
勉強のプレッシャーやメンバー構成など、様々な要因が影響しているとはいえ、“叱る”ことによって上手くやる気を引き出せた例は少ない。
上手くいった場合は、指導者の力量ではなく、選手自身の才能のおかげである。(僕の力量だと褒めてほしい気持ちはある。たくさんある。


それじゃあどうする??

少し話は逸れるが、実はプライベート大会(ケラドゥラ杯)は10年ほど前から細々と続けていた。

情熱溢れるエネルギー指導のスタイル、自分のプレーを見せて背中で感じ取らせるスタイル。
色々な指導者がいて、それぞれの個性に応じた個性的な選手が育っていた。

めちゃくちゃ楽しかった(炊き出しや親子対決は僕だけでは決して出来なかった)し、自分の指導のスタイルを相対化する機会になっていた。

選手の競技力を高めたり生活指導をしたりするのに、どんな方法があるか?内発的動機付けをどのように行うか?

指導で“怒り”を封じるからこそ、模索する道が開けるのではないか。

コスパともタイパとも無縁の世界が、教育だ。

だが、短時間で、出来れば先取りして、生徒や選手に知識や技能を伝えた方が数値的な結果が出るのが現在の社会やスポーツだ。

この辺りの矛盾をどう乗り越えていくのかが、教員や指導者に求められるチャレンジだし、現行システムの大会結果に関わらず、この辺りの克服に挑戦する取り組みをピックアップするのがメディアの腕の見せ所だと思う。

みんなが笑顔になったり真剣になったりする生徒指導ってのもどこかにあるかもしれない。

要求水準が高くて妥協がないけれど楽しい、そんなスポーツ指導もあるハズである。

そんなことを考えて、ハンドボールでの取り組みとして、コロナ禍以前に西田さんに作っていただいたトロフィーをお披露目する機会として、「大仏Impal杯」を開催してみようと思っている。

長文お付き合いありがとうございました。

人生に息抜きを。
安井直人

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