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駅伝の記憶

元来運動は得意ではない。
得意ではないのだけど、中学の時にとあるきっかけで特設陸上部に入部することになり、3年間長距離をやっていた。

長距離は、練習が結果に直結する。
小学生のころは持久走を走ったら後ろから何番目かでゴールしていた私だけど、逆に言うと伸びしろはこのうえなくあって、走れば走るほどタイムが縮んだ。
どんなに運動音痴でも、毎日走り続ければそれなりに走れるようになるものだ。

そのなかで、「駅伝」というスポーツが私を魅了した。
自分との闘いである「長距離走」が、襷を繋ぐ「チーム戦」になることで、私にとって走ることの意味が変わった。


忘れられない駅伝大会がある。
2011年2月に開催された「おおくま駅伝」だ。
福島県大熊町で開催される駅伝大会で、1人2㎞のコースを4人でつなぐ、小さいけども賑わいのある大会。

きれいなまちで、走りながら海と福島第一原発の空色の建屋がみえて、大熊町の人たちは優しくて。
そんなまちを、当時中学2年生だった私は襷をかけて走った。


福島第一原発が爆発したのは、それから2週間後のことだった。
大熊町は全町避難。襷をつないだあのまちから、人が消えた。
人が消えたまちは、まちと呼べるのだろうか。

それから夏にかけて私はタイムが縮まらず、あの大熊駅伝が、私が選手として襷を繋いだ最後の大会になった。


あれから13年。
大熊町は、一部の帰宅困難地域を除いて避難指示は解除された。
すべてを失いかけたあのまちで、今、あたらしいまちづくりがすすんでいる。

大熊駅伝はどうなったんだろう。
ふと気になって調べてみると、こんな記事をみつけた。

胸がいっぱいになった。
まちを走り、襷をつなげること。
その意味は、単なる「スポーツ大会」におさまりきるものではない。

「まちを走る」
ただそれだけのことが、ずっと叶えられなかったから。
防護服を着て、何重にもマスクをしなくては立ち入ることのできなかったまちを、陸上のユニフォームを着て走ることができる日がまた来たということは、大いなる意味をもつ。


またあのまちを走りたいな。
長距離なんてもう何年も走ってないけど、足が動かないかもしれないけど、坂道で転ぶかもしれないけど。
あと間違いなく中学生に負けるけど。
だけどまた、襷をかけてあのまちを走りたい。

そうはいっても、駅伝かぁ。
4人集めないと走れないからな。
この年になって駅伝やりたいっていう女性を、あと3人集めなくてはならないのはハードルが高いよなぁ。


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