行間に割りこむ
本を読んでいると、自分の知らない言葉や言い回しにたくさん出会う。
文学や日本語の文法を学んだことのない私にとって、新しい発見の連続である。
最近読んだ本のなかで、衝撃を受けた言い回しがあった。
「行間に割りこんでいかねばなりません。」
福田恆存著の「私の幸福論」という書の中の一節。
本当の教養を身に着けるためには、本を読む際に、その内容を鵜呑みにするのではなく、自分の意見を主張しながら、本に書かれている内容と問答を交わしながら読むべきだという内容での言い回しであった。
私は本の内容について、それはそれとして受け止めるタイプだから、この著者の意見については100パーセントの賛同はできないのだが、この言い回しには脱帽である。
私が知らないだけでよくある言い回しなのかと思ってググってみても、出てくるのはWordの行間調整ばかり。
作者独自の言い回しなのであろう。
「行間を読む」という言葉に初めて出会ったのは、小学校か中学校かの国語の授業だった。
文章で直接書かれていない情景や心情を読みとるという行為を指す言葉であることを知り、その言葉の美しさに胸を打たれたことを覚えている。
それまで意味を持たなかった、行と行の間の余白、言葉と言葉の間の余白に意味が与えられた瞬間である。
それ以来、「行間」という存在に、どこか愛着のようなものを持っている。
が、しかし、その行間に「割りこむ」という発想はなかった。
行間はそこに存在するもので、それを読み解くもので、自分自身の思考や意見をそこに割り込ませるなんて。
「行間に割りこむ」
思わず何度か繰り返して、口に出してみた。
それからなんだか、笑ってしまった。
行間に割りこむ。
いいね、なんかその強気な感じ。
私もたまには行間に割りこんでみようかな。
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