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概説

撮ることは、生きることだ。

私のシャッターは、いまの身体の真ん中にある心臓に鼓動を与えることだ。

生き方が、撮り方になり、写真には自分が正直に写る。写真に感情は写らないが世界の見方、視点はその人そのものであり、視点は確実に写る。

つまり、どう生きるかを常に考えなければ、写真は惰性とその場しのぎの飾りつけの作品となる。今日も、どう生きるかを、考えている。

たった23年、されど23年生きると、周りが少しずつ年下になった。
外で出会う子、家に来てくれる子、情熱に満ちた顔で、これまでどう生きてきたのか、何を大切に生きているのか、なぜ写真をしているのか、まっすぐに聞いてきてくれる。
人に自分の話をするのは趣味じゃない。偉そうに持論を語る大人にうんざりする10代を送ってきた。その子の人生はその子のもの、私の意見も生き方もさらさら関係ない。

しかし悩んでいる子に何かを明確に尋ねられた時、明確に答えられるだけのものを持っていたいという気持ちもある。答えるか、別のことばで包むかは置いておいて、自分、をしっかり説明できるようでありたい。

例えば、最近読んでよかった本を聞かれたら「ライ麦畑で捕まえて」を選ぶだろう。多くが年下の学生たちが参加してくれる撮影企画ではこの作品からのインスピレーションを基に、「Capture in the rye」と名付けて撮っている。
ホールデンが一生かけてなりたいと思えるものを一緒に描き、野原をかけまわる被写体たちが落ちぬように崖の淵からシャッターを切る。私の写真をみて、今すぐに電話をかけたい、と思ってもらえたら、成功だ。

I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be.
What really knocks me out is a book that, when you’re all done reading it, you wish the author that wrote it was a terrific friend of yours and you could call him up on the phone whenever you felt like it.


勉強のために読んでいるのはといえば「数学の文化史」だ。数学を学ぶのではなく数学者たちの頭の中を学ぶ。文系的な写真を得意とする一方で、課題は客観的で誰もがわかる写真をとること。完全な国語シューターな写真から脱するには、頭ごと理系的にものごとをみる視点がなければいけない。



最近よかったアニメは「葬送のフリーレン」。思わぬ変化をもらった。
冷静沈着でただひたすら毎日地味な鍛錬を積むこと。苦にもせず騒がず楽しむこと、そして信頼すること、それだけで気づけば強くなっている。そういう鍛錬を積みたくて、今日もスナップをひとり黙々と撮っている。イリュージョンは、魔法使いじゃなくても作品に、きっと働く。

ずいぶん好きなエンタメの話をしてしまった(ほんとは映画やドラマや漫画の話もしたい)が、総じて今、今の今、何を大切にして生きているか?と問われれば、ヘルシーに生きることだ。ここまでの話からの文脈が皆無で驚いただろうか。


最近結婚式の準備でウエディング業界のプロフェッショナルたちと接する機会が多い。知らなかった接客、知らなかった言語が次々と自分のもとに飛んでくる。彼らがよく使うことばに、ヘルシーがある。結構困った場面やほめづらい本来マイナスなものに対して褒めるとき、彼らはこう言うのである。「ヘルシーな体形でいらっしゃるので」「こちらはヘルシーなお食事ですので」「ヘルシーにお召しになれるかと」

豪華、立派、の反対にあるもの、例えば貧相なもの、例えば素朴でシンプルなもの、そういうものにヘルシーを使えというマニュアルでもあるのだろうか。しかしどんなお世辞であっても悪い気はしない。本来の意味はたぶん「健康的な」とか「健全な」とか。そこから「元気に見える」みたいなニュアンスに転じている。

なるほど、ヘルシーか。
音も含めてからだに清潔感や清涼感に近い感覚が走る。
私はヘルシーという言葉がとても気に入った。

以降今日もどう生きようか、そんなことは毎日考えていないが今日もどんな自分でいようか、と考えるとき、ふと「ヘルシー」ということばが頭に浮かぶ。

健康、健全、という意味は実に面白い。完全に主観的に個々が内省した結果のことであり、その定義も原因となり得るものもひとによってばらけているのに、客観的に見た時の一貫性も持っている。例えば身体の健康的さ、「元気にみえる」は、どれくらい痩せているかは関係ない。あくまで自分にあった体形で、自分にとっての怠惰な結果の肥満に達さず過剰な美をもとめた結果の痩せでもない状態、みたいなイメージ。私にとってのヘルシーな身体は、今以上でも今以下でもない。

そのように考えていくと面白いことに、いろいろな観点で総じて目指しているものはヘルシーに近い気がするのだ。

食べ物。食べ物は肉も魚も野菜もたべたい。偏らず、欲張らず、できればいい素材に巡り合っておいしく食べたい。たまにはジャンキーも。
飲み物。お酒をたくさん飲みたい。スムージーだって水だって珈琲だって飲みたい。全部はむりだから季節や時間によって決めたい。
読み物。知識だけが増えていくことと葛藤しながらも本の虫でありたい。外にいくことは思い切り、なにも考えずしたい。目の前のひとやものごとに本の知識を引用したくはない。
エンタメ。何かを否定せずアニメも映画も全部を楽しみたい。でも好きな作品はひとつの季節でひとつだけ、すぐに答えられるものを見つけたい。
生活。完璧主義ゆえの掃除や洗濯、花やお菓子作りまで手を伸ばす日々と一日中ソファから離れない堕落した日への憧れを胸に、どちらの日も欲しい。ただそのベースに、いつどんなところへもいける軽い足取りがほしい。
洋服。アクセサリー。大好きだけど沢山はいらない。新しいものと古いもの、どちらも同じくらいの頻度で、大切に着たい。
お金。作品には思い切りつかいたい。基本は最低限に自分に厳しくする。たまには浪費したって凹まない。
旅。いきあたりばったり、しっかり準備した洗練された荷物で行きたい。ひとつのバックパックに収まるように、少し無駄なものも入るように。
写真。ふとした瞬間を逃さぬ動体視力のような感性をもちたい。そのために自分の写真ではないような視点で撮る練習をする。

一体これらのどこがヘルシーなんだと思うかもしれない。一方でなるほど、と共感や理解できる部分があったかもしれない。それこそが「健康的」の個別さと一貫性の正体だ。

シンプルであることは複雑を愛することによって生まれる。葛藤と矛盾を愛しているから正解のないスタイルにいつまでも正解を求める。いつもぜんぶがほしくなるところを、その時々で素材を選んでレシピのように調整して、変化して、気に入ってはたまにもどって。常にのバランスをみている。それが私の生き方だ。私は私の生き方を気に入っている。変化しながらも、前をむいて選ぶ力をもっている。堂々としている。そんなヘルシーな生き方をしたい。


…なんて話は絶対に口頭ではしないだろう。
うさんくさいし。
音声と文章、同じことばを文字にするか声にするかで別物だ。適材適所があると思う。おなじくどい頭の中でも、文字にするほうが端的で清潔で涼しげだ。だからこの話は、文字にしておく。

季節が夏に傾き、初夏もジューンベリーの季節もあっという間に過ぎていった。もうすぐ夏がきてしまうことが、少し怖い。

それでも夏は来る。大好きな桜が咲く時期もベリーの撮れる量も去年と違うように、梅雨がまだ来ていない今年にも、新しい夏が来るだろう。アナベルは去年より少し早く咲いた。また、新しい風が吹く。

制作のために洗練されていく頭と心を胸に、少し怖い夏を楽しみに待つ。

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