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#いまから推しのアーティスト語らせて(慾深い私は平井堅の世界を丸ごと飲み込み骨の髄まで嫉妬したい)




 人間、時には闇墜ちする時間も必要だ。
 だけど、そういうときでも、心にぶれないものを持っていたい。悲しくても悔しくても、どん底まで落ち込んでも、真っ暗闇の中でも、目を開いていられる毅さのようなもの。世の中に臆することのない「私」でありたい。

 世間知らずで浅慮であり、肥大化する自意識だけが世界の中心で、自分の妄想と心象風景を綴るだけであったころから、私はそういった言葉に憧れていた。弱さや痛みを否定せず、確かに、身の裡に抱えながらも、それらに全てを投げ出さずにいる。私はいつも、そういう表現がしたかった。

 だから、常々、平井堅というアーティストの表現力に嫉妬している。






平井堅の音楽と子どもだった私


 私が平井堅を知ったのは、恐らく例に洩れず、8thシングルの「楽園」からだ。彼の歌をはっきり認識したのは、13thの「KISS OF LIFE」。国民的なアーティストの立場に彼を押し上げた16thシングルの「大きな古時計」のときに、私、ではなく、当時小学生だった私の弟が平井堅に入れ込んで、隣の部屋からひたすらアルバム「歌バカ」が聞こえてくる、というのが、思春期の私と平井堅の関係性だった。

 正直、昔は、私自身が彼の音楽をものすごく好きだったわけではなくて、ただ、否が応でも耳に入る、という生活をしていただけだ。私は、宇多田ヒカルが1998年に鮮烈なデビューをしたときがちょうど思春期に差し掛かるころであったし、それはつまり、絶大な人気を誇り、日常のどの場面を生きていても浜崎あゆみの音楽が目と耳に飛び込んでくるという、まさしく彼女が全盛期を迎えるころでもあった。また、当時の私はEvery Little Thingがとにかく好きだった。ヒッキーとあゆと持田香織の中に、時折、どこからともなくハスキーで甘辛い男性の声が混ざる。それだけだった。平井堅のつくる世界観に胸を焦がせるほど、思春期の私は大人ではなかった。

 それに、「大きな古時計」以降しばらくの平井堅の音楽は、ようやく日の目を見た才能が潰えることがないように、大衆的な表現が多かったような印象がある。「瞳を閉じて」や「POP STAR」のようなもの。嫌いではなかったけれど、取り立てて好きでもなかった、と思う。




憧憬や恋と呼ぶには強烈だったある日のめざめ


 メジャーアーティストとしての地位を確立した後、いつごろのことかも定かではないが、私は、平井堅の表現が変わった、と感じるようになった。平井堅に詳しいファンでもなんでもなかった私なので、彼が変わったのではなく、私の年齢が彼に追いついただけなのかもしれない。でも、長年、平井堅のファンでいる弟が「なんか独創性が増したんだよね」と言うので、やっぱり少し、変わったような気がする。

 多様で自由な表現力を身に付けられるとこうなるのかと思った。
 二十歳を過ぎて、改めて目の前に現れた「平井堅の音楽」に、私は強烈に嫉妬した。



 私の中のあなたをいつも殺して生きてきた
 誰もが知るあの歌が私には響かない


 とりわけ、2012年にリリースされた「告白」は、私の中で鮮烈だった。
 「瞳を閉じて」のような、あの甘辛い高音で、想いが遠くまで響くような切ないバラードではない。「POP STAR」のような、軽やかで陽気な曲でもない。言葉一つ一つが重いし昏いし深い、であるのに、折れずに毅い。そう、毅いのだ。恋愛のほろ苦さや、落ち込んだときのセンチメンタルさを少し見下すみたいな歌詞。私が知っている平井堅の曲ではなかった。
 なんだこれ、と思った。
 ちょっと待ってくれ、とも思った。

 は?



 素直に生きる美しさを 黒く塗らなきゃ生きられない


 feat. 安室奈美恵でリリースされた「グロテスク」もインパクトが大変に強くて、人間の内面を露骨に暴き出す歌詞に、私はやはり、こんな曲を作る人だったか? は? えぇ? と揺さぶられた。――格好いい。この曲はミュージックビデオもすごく好きで、そちらもダウンロードして、暇さえあればかなりしつこく観た。最高。この後に出された「Plus One」もよかった(この曲に関しては、私の知っている平井堅の延長ではあったけど)。そうして私の中で、平井堅の楽曲へのイメージが音を立てて崩れていく。
 焦燥を憶えるくらいに。
 この言葉のセンスがほしいと欲望を抱くほどに。



 鞄の奥で鳴る鍵 仲間呼ぶカラスの声
 僕はあなたに あなたに ただ 会いたいだけ


 「ノンフィクション」は、彼の大事な人が亡くなったのをきっかけに作った曲だと聞いた。鞄の奥で鳴る鍵、仲間呼ぶカラスの声、という歌詞に、私は、その人の部屋の前でただ途方に暮れている誰かの景色を見る。生きている自分と、死んでしまった人。生死と時間が分断するもの。置いていかれる自分と、置いていく自分――

 とはいえ、元々繊細な歌詞を書く人だったと思う。叙情的で、憂うような。だけどこんなに迫力があったのか、私の記憶は曖昧だった。人間の機微をつぶさに捉えながらも、歌詞にぶれるところがない。歌を擬人化するのなら、身動きのできない雑踏の中で、どんなに痛めつけられ、傷つき、擦り切れた姿になっても、立つことをやめずに目を背けない。呼吸をやめない。人の中で生きていく、その眼差しに宿る覚悟が深い。私には、そんなふうに見える。

 さみしいとか、悲しいとか。
 苦しいとか、痛いとか。
 いま感じているものをただ歌にして叫んでいるだけではなくて、歩いてきた道のりも、進んでいくしかないこの先も、全部が一曲の中にある。だから私は、毅い、と思う。平井堅の曲を毅いと思う。そして嫉妬している。

 限られた文字数の中でこれだけの表現がしたいと憧れる。




この愛憎をぐちゃぐちゃにして、
骨の髄まで飲み込みたい


 実は、これが初めて、私の平井堅への思いの丈を書いているものになるのだけど、楽曲を聴き、歌詞を読みながら、再び、こんなアーティストだったかしらという気分に陥っている。ドライなのに情熱的で、清く濁って、エグいのに颯爽としている、みたいな。濃淡の差が凄まじい。やばい。
 敢えて意識し、語彙を駆使して語ってきたけれど、端的に言えばそのとおり「やばい」のだ。
 平井堅の表現力はやばい。
 ミュージックビデオも、観るたびに世界観の奥行きが深くなっており、果たしてどこまでついていけるんだろうという気持ちも、少なからず抱く。多分に、多くの視聴者がそう感じているような気配もあるけれど(笑)。

 切なく甘く、軽妙に明るく、ともすれば、世間の要望の中、どこかで浅いところを漂っていたふうさえあったアーティストが、長い時間を掛けて確固たる立場を築き上げ、皮を脱ぎ捨て、したいがままの本能を剥き出しで、そのさきで新たに見せる毅然とした姿が最高に「イイ」。

 「平井堅と言えばこの曲」みたいなところで止まっている人には、改めて彼の音楽性の幅広さに触れてほしいし、ぜひとも近年の闇墜ちぶりを堪能してもらいたい。生きているとしんどいことって数え切れないくらいあるけれど、弱さをぶちまけたり世界を嘆いたり、わけもなく「あ゛ー!」って叫んだりしながら、だけどそれすらも毅さに変えて、自分を手放さずに歩いていこう。どうせ、人間なんて、愛しいだけじゃ生きられない。

 平井堅の魅力って、愛憎がぐちゃぐちゃになったそこにある。




※敬称略で書きました。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

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