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オルソン・ハウスの物語


 毎日、形にならない言葉を山ほど積み上げている。文章とも呼べない代物だ。後日下書きを読み返して「なんの話だっけ」と考える。


 悩みすぎて行き詰まったので、新潟市美術館で開催していた「アンドリュー・ワイエス展」へ行ってきた。
 会期末が近づくにつれ、行きたいとは思いつつ、腰が上がらなかったのだけど、なにも考えたくないと休日の午前中をだらだらと過ごしたあと、シャワーを浴びているそのときに「いや、いま行こう」とひらめいた。

 いまはもう遠い、クリスティーナとアルヴァロの生活を描いた、オルソン・ハウスの物語。

 壁に掛けられた作品は、静けさのなかに小さな生活音を立てながら、かつての日々を覗かせていた。ワイエスのまなざしのさきで、クリスティーナとアルヴァロの声がする。自らの夢よりも姉のかたわらで生きることを選んだアルヴァロと、不自由さをものともせずたくましく生活していたクリスティーナ。なにを成し遂げるか、何者になりたいのか、そんなことに思い悩む私の前で、ワイエスの筆はふたりがどうありたかったのかを残すように踊る。


 ゴヤの研究をしていたころ、膨大な量の版画と素描を前に私は大抵、うんざりしていた。版画、素描、版画、素描と見比べて、彼が引用したとおぼしき他の画家たちの版画を引っ張り出しては、歴史的な出来事と、彼の手紙と、その時期の彼の行動を参照し、うなり声を上げて頭を掻きむしった。

「クリスティーナの世界」の下地となるワイエスの素描を見つめながら、なんとはなしに、ゴヤのこと、泣きそうになりながらゴヤの作品を調べていた日々のこと、自分には研究者の才能がないのだと思い知ったこと、私がなりたかったもの、なれなかったもの、それでも捨てられなかったもの、いまの私のこと、静かに寄せては返す波のよう、自分のことなのに掴めない感情を、言葉を、想った。

 それからようやく、素描の向こうに、オルソン・ハウスを見上げるクリスティーナの姿を思い描いた。クリスティーナの世界。私の世界。途方もなく感じられるのに、そこが帰るべき家ならば、やっぱり帰るのかもしれない。


 なにげない日々は、振り返ればいつだって「そのとき」しかない。
 心のなかを、潮の匂いをつれた風が通ってゆく。

 一枚、また一枚と作品のなかの景色がうつり変わってゆくのにつれ、空気がやわらかく老いてゆく。「オルソンの家」の絵にたどり着くとき、クリスティーナも、アルヴァロもともにいなくなったオルソン・ハウスはただの建物でしかないのだと、三十年描き続けた景色と別れを告げるワイエスの横顔が見える気がして、あたたかく、さみしく、名残惜しく、無機質な、その家の絵をじっと眺めた。



 毎日、形にならない言葉を山ほど積み上げている。文章とも呼べない代物だ。後日下書きを読み返して「なんの話だっけ」と考える。

 今日もまた、noteの下書きが増える。
 細胞分裂を繰り返して、個体らしきものが少しずつ増殖する。
 あるいは宇宙の塵のようだとも思う。ガスや塵が寄りあつまってなんとなくかたまりになっていき、微惑星になり、微惑星は衝突しあってさらに大きな原始惑星になってゆく。私の言葉は私の言葉同士でぶつかりながらぐるぐるめぐる。同じところにいるようで、少しずつ確実に、きっとなにかになってゆく。



※今回新潟市美術館で展示されていたアンドリュー・ワイエスの作品は、埼玉県にある「丸沼芸術の森」の所蔵品です。

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