見出し画像

人生の岐路で「私が選ぶ」ということ


 今日も、人生の岐路に立っているので、自分で自分の選択をする責任と意味について書き留めておく。


-------------

 昔のことを話すと、私は大学三年生の六月には就活を始めた。ひっそりと。まわりには言わずに、一人で学外のキャリアセミナーに出掛けていた。
 私は高校までずっと学校が死ぬほど嫌いだったし(勉強は好きだったけど、勉強なんて一人でやるものだという意識が強かった)、家庭内男尊女卑にもうんざりしていたので、とにかく早く自立したかった。外の世界への憧れが人一倍強かったのだ。
 でも、始めたのが早すぎたせいか悩み始めるのも早くて、年を跨いだころには「これでいいのかな」と進路を迷うようになった。気の向くまま顔を出していた多分野の先生方からレポートを褒められる機会が多かったことや、ちょうど、卒論研究がすごく楽しくなっていたのも大きくて、四年生になったらもうだめだった。

 大学院へ行こう、と思った。学芸員になりたかった。

 ほとんど親の希望どおりに進路を選んできた私にとって、このときは一世一代の闘争だった。就活に励んでいる友だちには、すれ違うたびに散々なことを言われた。みんな私が誰よりも早く就活をしていたことなんて知らなかったし、私も絶対話さなかったから。大学院へ行く、と言うと、みんなそろって「なに言ってんの」って顔をした。

 教授以外は誰もが「逃げ」だと言ったし、当時の私も「これは逃げかもしれない」と頭の片隅でちょっと思っていた。でも、学部新卒至上主義の日本で、人文学系で大学院に行くなんていうのは「逃げ」なんて言葉で片付けられないくらい正気の沙汰ではないのは明白だったし、社会のレールから外れる勇気は並大抵のものじゃなかった。学科内進学の枠も一人しかないし、失敗するわけにはいかなかった。怖かった。めちゃくちゃ怖かった。恐怖を振り払うように、夜は学校の閉館時間まで、土日も図書館で勉強した。

 でも、大学院へ進学したのは、人生最大の英断だった。はっきりそう言える。

 社会の中では相変わらず、価値はないけど。
 そういうことじゃないんだ。


 思えば、大学受験で、第一志望の学科の合否判定が芳しくなかったときも、同じ大学の他学科を検討していた私に「そんなの勉強してどうするの」と、担任以外のみんなが口をそろえて言ったのだ。今は、無責任だなあと思う。その人の将来を保証できもしないのに、こっちはいいとかあっちは悪いとか、選択肢を狭めようとする。そのさきで何が待ち受けていようとも、岐路に立ったとき、自分で決断したことなら、いつかの後悔も一緒に「自分のもの」にできるのに、そんなことは誰も教えてくれない。

 大学院へ行くか行かないか、父と言い争ったあとの私に、それまでの何もかもを「あなたのためだと思ったから」と、一括りに口にした母の言葉以上に、残酷なものを私は知らない。
「あなたのため」って、嬉しいけど、どこかで相手のきもちを置き去りにした無責任だし、独り善がりだ。たとえ納得できないことでも、そう言われたらうまく責められない。だけど、自分が悪いとも思いたくない。出口が見つけられないまま、心だけが重くなる。それはとてもしんどいし、生きづらい、という実感がある。

 もし、両親の望む進路を選ぶなら「私が、おとうさんとおかあさんの喜ぶ顔を見るのがすきだから」って、私が自分できちんと思えるならそれでよかったんだと思う。でも実際はそうじゃなかった。親の望みをただそのまま差し出されて、私は共感できなかったけど、自分で受験料や学費を負担できる目処もない私は同意した。子どもだった私には、選択と決断と後悔の関係性が、まだ見えていなかった。

 進路だけじゃなくて、いろんなことがそうじゃないかなって気がする。何かを為そうとするとき、理由は「あなたのため」ではないほうがいいんだ。たとえば、弱者にやさしい環境をつくりたいのは、そうして「みんな」が生きやすくなることは「私が」生きやすくなることだから、みたいなほうがいい。いろいろ。だから、誰もが「自分で」「自分の選択」をできる社会が、一番いいんだと思う。

 こういうことを考えられるようになったのも、あのとき大学院へ行ったからだから、目先のことだけを考えたら「正気の沙汰ではなかった」選択も、毎日、よかったことしか思いつかないんだなあ。

 だから今日も「自分で決めよう」と思って、私は岐路に立っている。


 とはいえ、どうしても自分で選べない状態のこともある。なぜなら、選択肢のある環境って恵まれた環境だから。私は自己責任論が死ぬほど嫌いなので、それはここに明記しておきたい。「あなたの人生はあなたの責任」っていうのは、社会的責任を無視する免罪符にはならないと思っている。

 それでも、限られた状態でも、「自分が選ぶ」という能動性に自覚的になることは大事だ。ほんのちょっとだけでも、未来の自分のきもちが救われる決断を考えるといいんだと思う。誰かのためじゃなくていい。自分のために一生懸命考えて、自分のためにきちんと決断できるっていうことは、めぐりめぐって、他者との関係性をフラットにしてくれる。自分の悩みが見えるようになると、誰かの悩みも少しクリアに見えるようになる。自分の決断を尊重できるようになると、誰かの決断も尊重できるようになる。きっとね。

 人に相談するのも大事なことだけど、「私が決める」という意識は捨てずにいたい。だって、私の人生だし。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?