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困難だから愛したくなるのさ

空気が鈍色に染まるはずはないのだけれど、目に映る景色は確かに褪せていて、陸橋のくすみピンクの塗装だとか工事の注意看板のイエローだとかばかりがやけに鮮やかに見える。毎日ちょっとしたことを眼裏に灼いておこうとしている、生活の中で考えた言葉がいい言葉になると言われたから。でもこういうことではないのかもしれない。

いいものを書きたいという気持ちは、評価されたい気持ちと時々ごちゃ混ぜになって、この言葉ならば指摘されないだろうと私は優等生になりたがる。なれるはずもないのだからそんな虚栄心は早く捨ててほしい。見栄を捨てようと反対側へ舵を切ったらこれはシンプルにダメでは? 自棄では? という言葉を生んでしまい、感情と欲望の出力があまりにも下手だなと思う。

庵野秀明展を観に行って、とにかく書くしかない、長くなくてもいい短いもので構わないからクオリティを求めながらも手を動かして量産するんだ! と決意したはずが、いっかな量産体制には入れていない私の頭と指なのだった。凄い人のバイタリティと恐れと躊躇いのなさと飽くなき探究心を年始から浴びてインスパイアされても、私は私でしかない。

万代島美術館「庵野秀明展」より(会期終了)

ウルトラマン姿でドヤってる庵野がツボに嵌まりすぎてこの写真すごく好きだ。なんかすごいよなあ、うまく言えないけれど。誰にどう思われるかなんてお構いなしに、ただただ自分の好きなものにいつまでもドストレートでいられるところが羨ましくて私はいつだってそうなりたいはずなのに、どうして息をひそめてしまうのだろう。どう思われるかを考えながら言葉を生み出したくて勉強を始めたはずではないのに、何が「正解」の言葉なのかを無意識に探している。違うんだ、そうじゃないんだ。そうじゃないんだ。


ステートメントの講評で「ステートメントはエッセイじゃない」と言われたことを小さな驚きをもって受け止めた。ステートメント書いたんですけど!? みたいな憤りではなく、私の書いている文章、ちゃんとエッセイに読めるのか……という。例えばnoteで記事を上げるときにはエッセイのハッシュタグをつけるけれど正直に言えばエッセイではないと思っているので、エッセイというカテゴリに括られる文章に入れられるのか私の文章はという客観的な驚き、新鮮さ、むずがゆさ、みたいなものを今も噛みしめている。ハッシュタグに大した意味なんてないから、私の文章はどこまでいってもただの雑記。今も話の流れを一つも整理していないし。でも人から「これはエッセイですね」と言われると。そうかエッセイだったのか。エッセイ。

雑記にしておきたいのはそのほうが私の気持ちが落ち着くからだよなあ、Habitの歌詞が脳裏を過ぎる。

俺たちはもっと曖昧で
複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に君を分類する能力なんてない

SEKAI NO OWARI/Habit

「文章は読む人のためのものだから」こそ「あなたが問われる」。ああなんだかもっとまっさらになって文章を書きたいなあとそんなことを思う。私いまあなたの前に洗いざらしで立てています? 一生懸命すぎてもだめ、立派なふりの虚勢なんて論外、腰を低くしたら目線なんて合わないでしょう。スッと立ちたいんだよね、スッと。難しいね。だから好きなんだけど。

そう、だから好きなんだけど。書いては捨て、吐いては忘れ、何百何千と書いていくこの道の果てで、たった数文字で構わないからいつか君に辿り着けたらいいなあっていつまででも願いながらこの困難さを愛するわけですよ。

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