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「少女漫画は顔だけ」の真髄


「少女漫画は顔だけ」とよく言われる。

 確かに、俗に言う少年漫画に比べると、緻密な背景、身体描写や、怒濤の台詞回しはないし、やたらと瞳のアップが多い。雰囲気をさまざまなトーンで表現するのは定石だろう。そして、物語の展開よりは登場人物の関係性に重きが置かれるので、ナレーションのような第三者視点から見る語りより、内面の独白表現がきわめて大事なものになっている。

 で、冒頭の言説は主に否定的なニュアンスで用いられることが多いけど、私からすると「え? それがいいんじゃん?? だめなの?」いう感じだ。

 少年漫画は情報で成立するけど、少女漫画は余白で成立するのだ。

※「情報」に呼応して「余白」と表現しているが、「全く何も描いていない状態」を指しているのではなく「明確な表現として語られないもの」のこと。小説でいうところの「行間」のような意味としてこの記事では扱う。



 これは、伝統的宗教画を見るか、印象派絵画を見るか、みたいなものだと思っている。

 瞳や表情の絶妙な描き分けで、登場人物の揺れうごく機微を読むのが、少女漫画の醍醐味だし、そこがいいんじゃん、と主張したい。少女漫画は余白を読むのだ。努力・友情・勝利といったわかりやすくスタンダードな状況やメッセージをぜんぶあいまいに溶かした、言語化されない空気やなんとなく醸し出されている感情といった、正答のないものに想いをめぐらせるのが楽しいのである。

 たぶん、これができない人(解釈の手法を持たない人)にとっては「少女漫画は顔だけ」ということになるんだろう。なんとなく、現代アートを前にして「何を表現しているのかわからない」と放り投げるのに似ている。


 アンドリュー・ワイエスによる「クリスティーナの世界」は、対話型美術鑑賞においてよく取り上げられる作品の一つなのだけれども、この作品は描き込まれているものが「背を向けている人間」「なんとなく坂っぽい草原」「丘の上に点在する家々」「空」という余白だらけで、物語が見えづらいので、美術鑑賞に馴染みのある人間が集まって鑑賞をしても、四方八方に解釈が飛ぶ。つまり、多様なものの見方がさまざまな階層(鑑賞体験のレベルを超えた階層)から飛び出してくる、それがいいんじゃん??? ということで、対話型美術鑑賞においてはよく題材に選ばれている。

 ところで、この作品にも「捉え方」の鍵になるものはいくつもある。

 自分の目で作品をみるときに大事なことは「何が描かれているか」「どんな感じがするか」を、自らへ繊細に問いかけることである。草の色はどうか、人間の体勢からどんな印象を受けるか、女性か男性か、女性だとするならどこからそう思うのか、丘の上の家の様子や、空の雰囲気、朝か昼か夜か――そういったところから絵をみていくと、いろんなものが結びついて、おのずと物語が立ちあがる気配はないだろうか。
 こういった問いかけのさきで見つけたものが「正答」かどうかはともかく、表現のニュアンスをつかむことはできると思う。


 これは絵を「自由に」楽しむひとつの秘訣で、余白の多い少女漫画はこれに類似し、想像の自由度がきわめて高いのだ。繰り返すけれど、余白に想いをめぐらせることが少女漫画の醍醐味なのである。

 ドラマチックでエモーショナルな少年漫画の肉厚なストーリーもいいけれど、個人的には、自由だからこそ「少女漫画は顔だけ」上等、である。
 顔を描くのがたいへんにうまい漫画家さんの少女漫画は最高だと思う、瞳による感情の描き分けができたら勝ち組(まあもちろんそれだけではだめなんだけど、顔がいいことに越したものはないのだ)。



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