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時間をかけて表現を愛する


「またそれ読んでんの?」
「いつまでその音楽聴いてるの」

 そんなふうに私はよく呆れられる。本当の本当にのめり込むと、言葉や物語に運命を感じてしまうと、いつだって、永遠にそばにいられるような気がする。


 好きになるととことん一途で、ほとんどよそ見をしなくなるのは昔からだ。毎日同じ作家の本ばかりを読んでいる。毎日同じアーティストの曲ばかりを聴いている。飽きないのかと訊かれるけど、表現の骨の髄まで「私のもの」にしないと気が済まないから、飽きるなんてことはありえない。

 やがて離れる日が来るときは、その作品が私の血肉に昇華されたときだ。

 手許に本がなくても、私は脳裏で本のページをめくって物語を追いかけられるし、音源がなくても、いつでもまるでそこにその人がいるかのように、歌声を思い出すことができる。そうなってようやく、本そのもの、音源そのものから、私は手をはなす。

 脳内で完全に再現できる「そう」なってからが一番楽しいので、飽きた、という表現はやっぱりそぐわない。飽きたから手をはなすのではない。


 ライトノベルやオンラインノベルに最もハマっていたころは、超速読・超多読の読者だったけど、おそらく大学での研究活動のせいもあって、気がつけば精読へ帰ってきていた。どちらがいいとか悪いとかではなく、結局のところ、性格的には精読のほうが好きなのだろう。

 ラノベにハマるきっかけになった「魔術士オーフェン」シリーズで有名な秋田禎信さんを読みふけっていた時期に、私は本格的にものを書き始めたのだけど、まともに文章を書けなかった最初のころは、秋田さんの「エンジェル・ハウリング」の第一巻をひたすら筆写していた。これも一種の精読だったと思う。読みすぎて、いくら文章や構成を考えても、数年間は秋田さんの模倣の域を出られないままにはなってしまったけど、この経験がいまでもものを書くときの基礎体力になっているのは間違いないし、言葉への感性がより磨かれたのもこのときだ。

 研磨された宝石の内側で、艶めいて燃え上がるような文章が心底好きだった。読むたびに光の角度が変わる。ぞっとするほど心酔していた。

 たぶん、あのころから私はずっと、その日、そのとき、そのまたたきの隙間で、ひらりはらりと移り変わる表現を追い求めている。同じ景色のなかでも、出会うたびに新しい印象がはなひらく、多彩な言葉を抱きしめたい。

 一つの本、一つの音楽、同じだけど、毎日ちがう。
 めざめてからねむるまでの今日を、私が生きたぶんだけ。

 本当に、本当にそんなふうに大好きだなって思うものに出会えるのは、いつもやっぱり運命じゃないかなって気がする。


 たくさん見たり、聴いたり、感じたり、考えたりするのはいいことだ。私も、何かを始めるときはいつだって数をこなす。学芸員をめざして突っ走っていたときは週末はかならず美術館、一年間に何十という展覧会へ足を運んだし、ラノベを大量に読んでいた一時期は私が書き手として自分のつくりたいものやスタンスをさがしているときだった。いまはnoteを大量に読みまくっている。だから、そういう経験も必要だと思う。

 その一方で、いくらまわりに呆れられようとも、ばかみたいに一つの「運命的な表現」に執着するのも悪くない。きっと星の数よりも多く世の中に作品があふれているいまだから、手軽になんでも読めて聴けてしまういまだから、なおのこと。大好きな「それ」をひたすら舐めて、噛みしめて、味わって、跡形なんてほんの少しも残らないくらい口のなかで潰してしまってから、咽喉をとおして、そこでもまだ自分の身体に溶かしてしまうのを惜しむくらいに、時間をかけて、その表現を愛するのだ。

 表現が私の一部になる。永遠に「私のもの」になる。

 どこまでこの人の表現の深いところまで理解できるだろう。そんなことを考えながら、私は今日も、同じ本を読んで、同じ音楽を聴いている。



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