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自己肯定感の話

先日「自己肯定感」というワードがTwitterのトレンドに入っていましたね!

自己肯定感、私はめちゃくちゃ低いです。今はすこ~し回復してきましたがそれでもぜんぜん。

というわけで、2回目は私の自己肯定感について書いてみようと思います。

根底をなすもの

私の自己肯定感の根底をなすものは、間違いなく幼少期の成功体験の少なさだと思います。

私の両親は自営業で定食屋を営んでおりました。
実家とお店はつながっていましたが、私たちが学校から帰ってくる時間はちょうどお店も忙しく、顔を合わせたりゆっくり話をする時間はありません。

家にいるのは頑固で厳しくわがままな祖父と、そんな祖父に怯えて暮らす祖母。そして二歳下の弟。

(この厳しい祖父の話はまたどこかでしますね!)

これは決して自慢ではないんですが、幼い頃の私は割といい子で、勉強も好きだったし騒がないし駄々こねないしおとなしいし、手がかかる子ではありませんでした。

それに対して私の弟は私ほどいい子ではなかったのです。勉強は苦手だし、やんちゃでお調子者で、学校でも家でも大人は手を焼いていました。

対比するように、私は余計いい子に見えたんでしょうね。
小さいころ私は怒られることがあまりありませんでした。

もちろん何かとんでもないこと(隠れてオロナミンCを1箱飲んでいたのがばれて弟に罪を擦り付けるなど)したときはめためたに怒られましたが、「うるさい!」だとか「勉強しなさい!」だとかで怒られることはありませんでした。

けれど「怒られない=褒められない」なんですよね。

【悪いこと】があって初めて【いいこと】が見えてくるんです。
【いいこと】をすると褒められるということが、成功体験として積み重ねられるんですね。

できて当たり前

「褒められない」はだんだん「できて当たり前」になっていきます。

先にも話したように、うちの両親は放任だったので「できて当たり前だ」と直接言われたことはありませんでした。
多分そんなこと思ったこともなかったと思います。

しかしいかんせん、言葉で褒められることがないわけですから、私の中にも「できたらすごいこと」という基準が経験として積み重なっていきません。

そうなると簡単な問題も難しい問題も、同じレベルで語られることになるのです。

簡単な問題ができなくて落ち込むのと、難しい問題ができなくて落ち込むのと、すべて同じ落ち込みとして私の心にのしかかります。
「できたらすごいこと」の基準がないのですから。それはつまり「できなくても問題ないこと」の基準もないと言えます。

「相対性理論を説明しろ」と言われても、そんなものは普通の人間の8割以上がまともに説明することができないはずです。
もちろん私も説明できません。当たり前です。

そしてこれは「できなくても問題ないこと」に分類されます。
つまり「落ち込む必要のないこと」ですね。

しかしその基準がない私は「わたしはこんなこともできないんだ…」となっていたわけです。

落ち込みの経験

ここまでくると後は負の連鎖です。

落ち込む必要のないことで落ち込みまくっていた私には、成功体験とは真逆の失敗体験が積み重なっていきました。

・自分はダメな子なんだなぁ。
・ダメな子が目立っちゃだめだなぁ。
・こんなこともできなくて恥ずかしいなぁ。

最悪!かわいそう!
もし自分に子供ができたら絶対にこんな思いさせないようにしよう!笑

この負の連鎖は20歳半ばまで続きました。
自己肯定感がないゆえに、生きてていい理由・生きていなくてはいけない理由が見つからず、自殺を考える日々でした。

「すごいね」「えらいね」の言葉一つで、どうにかなった問題だろうなと、健康になった今は思います。

自己肯定感回復の為には?

自己肯定感回復のためには何がいいのでしょうか?
答えは私にも全くわかりません。笑

私の場合はパートナーにしこたま肯定されたという経験が効いたと思います。それから「まあいっか」を多用すること。

「まあいっか」=「落ち込む必要ない」「できなくても問題ない」=「私はダメじゃない」

セルフ自己肯定!

できたことを褒めるより、できなかったことを責めないということが大切かなと感じます。

「大丈夫!死なないし!」

そう。どんなまずいことが起こっても、人間はそんなに簡単に死にませんし死ねません。大丈夫!大丈夫!

根拠のない大丈夫でいいんですよね。
だって同じくらい「大丈夫じゃない」にも根拠がないんですから。
どうしようもないかもしれませんが、どうにかなるかもしれない。
落ち込む必要はないし、不安になる必要も、自分を責める必要もありません。

「まあいっか!」
これからも使い続けていきたいです。



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