今までの「私のあたりまえ」と向き合う作業
カウンセリングではほぼ毎回、自分にとっての当たり前が、当たり前ではなかったことに気付かされる。
「それって本当にあなたが悪かったのかな?」
「それは彼/彼女の問題で、あなたが責任を感じる必要はないよね」
「あたたかい大人だったら、その時どう反応しただろう?」
カウンセリング用語(心療内科用語?)で、「認知の歪み」をなおしていく作業。今までの自分にとっての当たり前を疑ってかかるので、けっこう精神的にも体力的にもエネルギーを消耗する。
小さい時から、何でも自分のせいにして、自分は悪くないと思っても謝って、折れて解決してきたなぁ。
逆に、その人のせいじゃないのに、「自分のせいだ」と必要以上に自分を責める人も見てきた。
その積み重ねで、悪いことやうまくいかないことが起こると、反射的に自分のせいだと思ってしまう。自分が関わってるわけではないのにビビってしまう。
もちろん、自分が悪い時もあるけれど。
何かが起こった時、いったん落ち着いて状況を整理する癖は、ここ数ヶ月、トライアンドエラーを繰り返しながらだんだん身についてきた。おかげで、過剰に自己嫌悪に陥ることは減ったけれど、やっぱり自分の最初の反応を疑ってかかるには労力が要るし、言葉を変えれば、素直に自分を信じられないのは辛い。
もちろん、今までの私の「当たり前」や「感じ方」をそのまま受け入れていい時もある。でも、それでいいときとそうでない時の線引きがむずかしい。ほんとうにむずかしい。
それでも、前より苦しくなる回数が減っているのは確かで、自分の身体に敏感になって、より正直な選択を取れるようになった気がする。
自分の身体に正直な選択をしてみると、他の人の迷惑になってしまいがちで、ほんとの自分の脆さに気づく。
でも、いったん、その申し訳なさを手放して他の人にお願いしてみると、その人にとってはなんてことないことだったり、自分には想像できない新しい捉え方をしたり。
自分の「認知」というソフトウェアがアップデートされているような感覚。
生きている限りこのアップデートには終わりはないけれど、ひとまず最低限のところまでのアップデート完了まで、あと少し。
どんな時も、上を向いていられるようになりたい。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?