私は、エリートにはなれない〜「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで〜

 都心で、それなりに道が広くて、自然があって、本屋やスーパーがそれなりの距離にあって、できれば築浅で…というような街に住みたいと思って物件探しを始めると、3LDKならだいたい今はどこも4,000-5,000万といったところがスタートラインになる。(もちろん、駅からはずいぶん遠いところになる)そこで32歳の自分が、60歳で働けなくなるだろうという前提でローンを組もうとしてみると、おおよそ月に15-20万程度の支払いが生じる計算になる。結論から言うと、今の自分と配偶者の給料で、かつ将来的に子どもを育てると見越した時にその暮らしを実現するのは不可能である。
 必然的に、転職が視野に入ることになる。ところが悲しいことに、今の自分の「スキル」や「経歴」では、ここから給与が上がって、今の働き方をそのまま維持して、かつやりがいを持って取り組めて、と言う職場は残念ながら存在しないらしい。「らしい」というのは、私が転職サイトに登録して最初に面談をしてくれた、おそらく若いエージェントがそう言っていたから。
 久しぶりに何か、超えられない壁のようなものにぶつかった気がした。高校3年生のころ、仙台に住んでいた私は東京で大学生活を送ることに強い憧れを持っていたが、それは覆しようのない事情により断念せざるを得なかった。(今思えばもっとやりようがあったのかもしれないとも思うが)あの時に感じた、「覆しようのない事情」というものが、再び自分にのしかかってきたような、そんな気がした。

 いわゆるソーシャルセクター界隈で暮らす私の周りには、私のやりたいようなことをやってお金を得て生活している人たちは確かに存在している。彼らは一概に、自身の身の上話(いかに自身が苦労してきたか)を語り、その上で、情熱と覚悟を持ってやりたいことへ邁進してきたのだと、そんな自分に誇りを持っているのだと、一方で迷いも悩みも葛藤も持ちながらここまできたのだと、そんなように話す。それは私にとっては一つの憧れで、そんなふうに暮らしてみたいと思う。仙台では影も形も見えなかった彼らに、東京に来てからは直接会うことも増えた。皆、目が輝いていた。
 しかし、そうした人たちに私はなれるのだろうか。なれないのではないかと思ってしまう。話せば話すほど、私はそうした方々との決定的な距離を感じてしまうことがあるからである。具体的には出身地、親の仕事、学歴と、それに基づくさまざまな資本である。私にはそんなものはない。私が、望む暮らしを手に入れるために「覆しようのない事情」と向き合っている頃、彼らはとっくのとうにその先にある暮らしを手に入れていたのである。その暮らしの中で彼らはすくすくと育ち、やがて自分の周囲にあるソーシャルと、図書室の本の中にあるソーシャルの乖離に気づいていき、図書室の本の中にあるソーシャルを「解決すべきもの」として、そこに立ち向かっていくのだろう。
 目を輝かせて情熱を語る彼らの、その背後にそうした景色が透けて見えた時、私は彼らの語る「苦労」とはまったく大したものではないように思えてしまった。彼らの語る「ソーシャル」というものが、何か実体を伴わないとても空虚なものにすら感じられてしまうことが、最近増えてきた。「バラモン左翼」という言葉が頭をよぎる。そして、転職サイトに登録する時に必ず学歴を問われる時のあの気持ちを思い出す。

 三宅香帆「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んだ。表題の答えを労働と読書の歴史から探しに行こうとする。はじめは脳科学みたいなものが出てくるかと思ったが、そうではない視点からアプローチから本題に取り組もうとするところに筆者の抱える課題観、もしくはバックグラウンドが端的に現れているように感じられる。示された答えは「読書と労働が結びつけられること」であり、それ対する抵抗の一案として上野千鶴子を引用し「半身で働くこと」を提案している。
 国家権力の手によって作り上げられた「立身出世」と、そのために「一生懸命に働く」という一つの生き方の指針は、新自由主義、グローバル化といった現象の中で今や国家の手を離れ、いつのまにか自由の名の下に個々人の内面へ強制されるようになっている。その中で読書は、かつては国家的な労働(L)と結びつき、社会の変容によって一時的に娯楽へと切り離されながらも、今度は自発的な労働(L')へと結びつけられてきている。そこに抗うためには、自発的な思いで以って労働に対し「半身」であろうとする他ないのだろう。

 この本は、ある種の挑戦的なライフスタイルを提案している。読書を楽しむためには社会構造に対する個々人の、内面への挑戦が必要なのである。しかし、私は最初この本にはじめ興味を惹きつけられながらも、最終的には微かな違和感を抱いて読了した。本書では、ゆとりある人々にとっての「娯楽」としての読書を、「労働」から取り戻すための試みが語られるわけであるが、結局のところそこで提唱される取り組みは新自由主義の唱える思想に対して抗うどころか、迎合してしまっているきらいすら感じられる。(「おひとりさま」を唱える上野からの引用であることがその印象を加速させすらしている)そして、残念ながら、その試みを挑戦していけるのは、それによって暮らしを失うリスクを抱えていない人たちだけだろう。
 著者は京都大学を卒業し、リクルートへの就職を経て文芸評論家として活動し、現在は大学の非常勤講師としても活動している。どうやったらこのような暮らしを手に入れることができるのか、私にはまったく想像がつかない。想像がつかないところで暮らす人たちが、想像のつかない悩みを世間に対してわかりやすくパッケージングして提供しているのが本書である。では私は、ここで語られる「半身」になったとして、冒頭で書いたような4,000-5,000万、月15-20万から始まる落ち着いた住まいを獲得することはできるのだろうか。そうではない気がする。
 書籍において語られる思想は、社会に対するある種挑戦的なものでありながら、社会に対抗する社会を構築しようとすることはなく、それを「個々人の努力」に委ねようとしている。なぜならばこの書籍で描かれる課題の出発点はあくまで個人的な体験であり、である以上私小説的なものから脱せないためである。その証拠とでも言うべきか、この書籍は「半身が可能な社会を構築する」ことを提案するも、その社会が果たしてどんな社会なのかについては語られない。あくまで私的な体験から脱することができないから、この発想をさらに広く拡張していくことができないのではないだろうか。「個々人の努力」の先に見える社会とはどんなものなのだろうか。私には想像がつかない。

 私は、エリートにはなれない。「覆しようのない事情」があまりにも広がっている。どうすればそこに立ち向かえるのか。当面、その問いを立ててみるつもりでいる。少なくとも私が、4,000-5,000万の住まいを購入できないことへのコンプレックスを抱いている間は。

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