リビング・イン・ニア・トーキョー #15
梅雨空が続く。昨日まで晴れだった天気予報は、いつの間にか雨になっていた。
テレビで野球を見る。
画面の向こうでは、人工的な応援歌が流れている。時折、生の拍手。人がいる。スポーツのある日常が戻ってきている。
スタジアムには少ないながらも人が入るようになってきた。感染者が増えつつある中でこの措置は果たして大丈夫なんだろうか?と思うが、止める術があるわけでもない。ならばできることというのは、自分に火の粉が降りかかってこないことを祈りつつ、テレビでその光景を楽しむことぐらいである。
サッカーが好きな自分にとって、ニア・トーキョーに来るというのは一大事だった。何しろ、テレビで見ていた様々なスタジアムに気軽に行くことができるようになるのだから。しかし、その期待は例のウイルスによって奪われてしまった。結局、テレビで見ていた憧れのあのスタジアムは、今までと同じようにテレビの向こう側にしか存在しない。
1ヶ月前と、状況はまた変わりつつある。
4月ごろのあの閉鎖的な空気が、また段々と広まってきているように感じるのである。感染者数の増加。街中には人が増え、一時期の宣言中のそれとは比べ物にならないくらいの混み具合。おまけに、梅雨。雨と風のせいで外に出ることも億劫になってくる。世界が、どんどんと狭まっていくような気がして、ぼくはなんとなく息苦しさを感じている。それを打開したくて、それなりに大きな本屋に出向いたのが先週だったけれど、人の多さに嫌気が差しただけに終わった。
出口のないトンネルを延々と進んでいるような感覚。出口はどこにあるのだろう。「ある」ことだけはわかる。でもその場所が分からなくて、試行錯誤を繰り返す。湿気。もどかしい日々。気がつくと、菓子の袋だけが積み重なっている。
気がつくと楽天イーグルスは6点を取られていた。
相手のピッチャーがすごかったよねというところで、すっかり見る気をなくして、テレビを消す。
静寂。エアコンの音だけがさーっと響く部屋。カーテンの閉まった、白と濃紺の部屋。息苦しさは募る一方だった。
出口を見つけたい。どうすればいいんだ。
本屋に行っても、皇居に行っても、何か晴れないモヤモヤがある。
仕事は楽しいはずなのに、なんでこんなことになっているんだ?
思い切って、ぼくはこの部屋に身を投げ出してみることにした。
カフェオレを淹れて、とにかくもう、なんでもない時間を作り出す。
「○○に行く」とか「○○をする」とかでない、目的のない時間。
これならばどうだろうか?
なんでもない時間。
うすぼんやりとした時間。
...あれ?時間が「うすぼんやり」としている。数時間前じゃ絶対に思い浮かばない表現だ。
時計に目をやる。
さっきまでカチコチと進んでいた針の輪郭がぼやけている。
...ああ、なるほど。つまり、これが正解だった。
さっきまで窮屈だと思っていた空間が、
トンネルを抜けたときのように広がっていくのを感じる。
出口。
そうか、いちど投げ出してみればよかったのだ。
久しぶりの感覚。欲していた感覚。
ぼくは、自分の内なる街にたどり着いていた。
ここ2〜3週間の自分が客観的に見えてくる。
皇居に行った。本屋に行った。仕事をたくさんやった。
でもそれって、「行きたい」「やりたい」ではなかったんじゃないか?
なんとなくそこに、「行かなくちゃ」「やらなくちゃ」があったんじゃないか?
仕事。
「やれること」「できること」が広がりまくったここ数週間。
気がつくと、必死になって、「できること」を消化することに囚われていたのではないか。
結果、それが、かえって余裕をなくすことにつながっていたんじゃないか。
なーんだ。
おかしな話だ。
てっきり、今の自分は「余裕がある」とばっかり思っていたのに!!
自分を見つめ直す。
ここ最近、毎日のように暴飲暴食してしまうことにも納得がいった。
だいたい、余裕がなくなると、目の前の「感覚的な」欲望に囚われる。
INFJあるある。分かってはいた。
こうなってるってことは、何らかのストレスがかかってるってことだ、と。
でも、その原因が見つけ出せなかった。何せ、楽しかったのだから。
今はわかる。単純に余裕がなかったんだ。
「楽しい」と「余裕がない」は両立するのだと気づいた。
楽しいことでも、自分を追い込んでしまう、ストレスが溜まることがあるんだ。
28年生きてきて、そんなことにも気がつかなかった。
これもまたINFJあるある。自分がわからないんだ。
てっきり、モヤモヤするのは梅雨のせいだとばかり思っていた。
あるいは例のウイルスのせいか。
いや、それらのせいというのも少しあるのかもしれない。
でも、まあこれくらいなら跳ね返せるのだろう。
一人の時間。
INFJには一人の時間が必要だという。
「一人」の意味合いをぼくはよく分かっていなかったということだろう。
それは、物理的な意味じゃなくて、精神的な意味だ。
ぼくは、内なる街で内なるぼくと、一人で対話する。
そうだ、この時間が最近なかった。
人のことばかり考えていた。自分の外の出来事ばかりに目が向いて、いつの間にか、内なるぼくに「一人で」目を向ける時間が無くなっていたのだ。
仕事もそう。睡眠もそう。趣味の時間も、最近再開した運動もそうだ。すべては自分の外にある何かのためにやっていた。
早く眠るのは、明日の仕事を順調にするため。
運動するのは、ストレスが溜まって仕事に支障が出るのを防ぐため。
趣味に取り組むのは、この記事のためになっていたりもした。
仕事が楽しいのは、人に認められているからだ。
いずれも、内なるぼくのためではなかった。
ただ、ぼくは、内なるぼくに目を向けようとはしていた。でも、見つけることができなかった。なぜ?それは、そのぼくの隣に必ず誰かがいたからだ。それでは、内なるぼくは、内なる街への入り口を開こうという気にはなってくれないのだろう。
不思議な気持ちになる。数ヶ月前まではちゃんと分かっていたはずなのに、ついさっきまでぼくは完全に内なる街の入り口を見失ってしまっていた。
ひとえに、自分の余裕のなさだった。
余裕を作るためにどうする?内なる街に入り込むために、どうする?
答えは、たぶん、何もない時間を作り出すことだ。
何にも囚われない、目的のない時間を生み出すこと。
時間を「うすぼんやり」とさせること。
そうすることで、ぼくはまた、たぶんここに帰ってくることができる。
仕事のためじゃない。誰かのためじゃない。この記事のためじゃない。
ぼくは、内なるぼくのために。
eureka!
カーテンを開ける。外を見る。陽が差している。
18時からベガルタ仙台の試合がある。今日こそ勝ってほしい。楽しみ。
それだけでいい。それだけでいい時間も、必ずある。
もうちょっと、内なる街でのんびりしていくことにした。
(2840字)
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