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リビング・イン・ニア・トーキョー #2

音楽を聴きながらお楽しみください。


 コーヒーを淹れて、カーテンを開ける。
 豆の蒸された香ばしいにおいと、Spotifyのプレイリスト「Your favorite Coffeehouse」が、日の当たる午前中の部屋を少し気取った空間にしてくれる。
理想通りのソファに座り、理想ギリギリ許容範囲のローテーブルに足を組み、理想通りの白を基調とした部屋の中で、理想を遥かに超えるMacbook Proを膝の上に置く。

 「リビング・イン・ニア・トーキョー」。曲がりなりにも「トーキョー」と銘打ってしまった以上は、このエッセイにもそれなりに都会の雰囲気を纏わせたい。ならばまずは身の回りから。服は人を作る。

 そんなギリギリ洗練された空間に浸りながら、洗練された音楽の流れる中、
僕は最高に洗練された菓子「おおくぼのかりんとう」を口に運んだ。

......

うまっ!!くそうまい。

都会っぽさとか洗練とかなんとか知ったこっちゃねえ!

ありがとう岩出山!!

ということでこちらの音楽をどうぞ。
さっきの音楽はいいです。都会なので。


 岩出山名産、おおくぼのかりんとう。こっちに来て、もう出会うこともないだろうと思っていたら、なんと池袋のアンテナショップに鎮座なされていた。素朴な甘さがとってもよい。炭水化物爆弾であるという弱点にさえ眼をつぶれば、いくらでも食べられる。眼をつぶれば。

 都会のそばにありながら、田舎の菓子をかじっている。そのアンバランスさが妙に心地よくなってしまう。そしてなぜか、心地よくなっている自分自身が妙に愛おしく感じられてしまったりもする。

 それは距離と時間が為せる魔法なのかもしれない。同じ県であるというだけで、別段故郷として意識したことのない岩出山という街が、なぜか懐かしく思えてきて、脳裏には陸奥の小京都の風景が浮かんだりもしてくる。320キロという距離がなければ、越してくるまでの1ヶ月がなければ...もっと言えば、前職で6年間いろんな地域に足を運ばされ、様々な街に触れた経験がなければ、この情景も浮かばなかったし、この懐かしさを得ることもできなかったにちがいない。

 距離と時間が為せる魔法。手間をかけるからこそ、得られるものがある。

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音楽で、狂った街の無情を感じつつお読みください。


 「水が美味しくない」ということに気づいたのは、コーヒーを飲んだ瞬間だった。なんだか、あまり好きではない甘さがまとわりついている。「都会の水はまずい」という話は、ある種の都市伝説のようなモノだと思っていたが、まさか体で実証できる日が来るとは思ってもいなかった。

 都会の都市伝説はたくさんある。「人が冷たい」ということだってそう。自転車で転んでも誰も駆け寄ってくれない、とか、街ゆく人に尋ねごとをしても応えてくれない、とか。数多ある流行歌のフレーズがその印象に拍車をかける。いわく、東京は狂った街だと。

 思い出した。憧れをもっていたこの街に、僕は同時に恐怖も抱いていた。ひょっとしたら、あっという間に怖いお兄さんたちに見ぐるみを剥がされてしまうんじゃないか、とか、財布のような金目のものはあっという間にスられてしまうんじゃないか、とか。

 いつかは、いつかは、と思っていた街。思い返せば、過去にもチャンスは何度かあった。けれど、お金のこととか、親のことを言い訳にして、まるで叶わぬ夢であるかのようにして、結局は自分で握り潰してしまった。今回のことだって、僕は心のどこかで言い訳をしている。自分のやりたい仕事がこの街にしかないから、とか。それは、恐怖がどうしても拭えなかったからだと思う。憧れの街は怖い街。

 来てみれば、そんな都市伝説は都市伝説でしかなく、モノを落とせば拾ってくれる誰かがいたし、「こんにちは」と言えば「こんにちは」と返してくれる誰かがいた。「まあ、ビミョーに東京じゃないからなあ」とは思っても、抱いていたイメージが良い意味で裏切られるというのは、なんだか悪いモノではない。

 しかし、僕は同時に疑ってもいた。これは執拗に団結だの連帯だのを促してくる例のウイルスが見せる幻なのかもしれない。落としたモノを拾ってくれた女性が「誰かが落としたモノを拾わないと死んじゃう病」にでもかかっていたのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、コーヒーはすっかり冷たくなっている。

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 つまるところ、街なんてモノはその時々で変わりゆくものだし、誰もがそれに染まっているわけでもないのだろう。僕たちはどうしても、「街」を何かしらの固体的なものとして捉えてしまいがちだけれど、実際のところそれは極めて流体的なもので、日々変化している。僕たちが抱くイメージなど虚像にすぎない。

 「東京は冷たい」と言った人間の住むところが、たまたま集団で人間不信に陥っていたのかもしれない。それが、マスメディア的な文脈...それが多くの人の心を揺さぶり得るが故に...その中で使われ、広まっていっただけなのかもしれない。

 僕たちは手間を惜しむ。鈍行列車が新幹線になっていくように、会議がオンラインになっていくように、体験は想像の中で作られていくようになる。そうしていくうちに、流体的であって、今も流体的であるはずの「街」は、僕たちの想像の中で固体となっていく。レッテルを貼られていく。本来それは過去でしかないはずなのに、今まさにリアルタイムで存在しているかのように。

 手間を惜しんでいくうちに、街は、僕たちは、僕たちの想像の中で固体になっていく。いちど固体となったことに気づかずにいると、僕たちはいずれ動脈硬化を起こし、想像の中から、体を腐らせていってしまうのだろう。

 そして、我が身を省みる。

 腐らないために、どうすればいいのか。

 流体でいることだ。都市伝説も、怖い人も、故郷の懐かしさも、行ってみなければ、会ってみなければ、この目で確かめてみなければ、何もわからない。想像ですべてを完結させてはいけない。流れに身を任せて、自分の目で見たモノだけを、真実とすることだ。

 たとえ誰かの想像の中で僕たちが固体になっていったとしても、僕の中では、せめて僕たちは流体であり続けよう。血液のように、流れる川のように、飛び交う札束のように。

 だから、この街に来たんだと、また僕は反芻する。
 凝り固まったイメージから逃げ出すために。



 冷たいコーヒーを飲み干す。美味しくない。仕事へ向かう。


(2593字)

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