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ストームグラス

先日自宅で友人たちと集った時、もうすぐ誕生日を迎える私のために、みんなが「ストームグラス」というものを贈ってくれました。

これはガラス容器の中に透明な液体が入っていて、気温変化によって内部の液体が雪のように結晶化するのを見て楽しむインテリア雑貨で、以前同じ友人たちとの街歩きの最中に雑貨店で見かけ、お洒落な飾り物だなあと思っていました。まさかこれが実用品だったとは思いもしなかったのです。

説明書によると、19世紀ヨーロッパで主に航海時の天候予測器として使われ、中に入っているのは樟脳や硝酸カリウムなどの混合液で、ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』にも登場するということです。

ジュール・ヴェルヌといえば思い出深いのは、もう15年程前の話ですが、フランスの旅行企画を担当していた時、自分で視察に行って作った企画だったので、自分で添乗することになりました。北部ノルマンディー地方からブルターニュ半島を廻り、最後にナントに差し掛かった時、運転手が突然、ロワール河を見晴らす丘でバスを停めて「写真でも撮ればいい、景色がいいぞ」と勧めるのです。わけがわからず写真を撮ろうとすると、そこにMUSEE JULES VERNEという小さな建物があり、セーラーカラーの服を着た男の子の銅像がありました。

その時はMUSEEが博物館と分かってもJULES VERNEが誰なのかわからず、あとで調べて見ると、あの『海底二万マイル』の作者でした。日本では『不思議の海のナディア』の原作としても知られていますが、ものを知らない私は恥ずかしながら、マーク・トゥウェインあたりの作品だろうと思っていたのです。しかしなぜ、内陸都市のナントでノーチラス号なのでしょう。

18世紀から19世紀にかけてのナントは「西のベネチア」「西のパリ」と呼ばれるほどロワール河の港湾貿易で栄え、今でも倉庫群や美しいパッサージュ、劇場などに当時の繁栄を見ることができます。ヴェルヌの母親は船乗りの家系の”嵐のような夢想家”で、街を歩く船乗りたちの冒険話もまたヴェルヌ少年の想像力を掻き立てたそうです。ある時はインド航路の船に勝手に乗船し、弁護士であった父親に連れ戻されたという話もあります。ヴェルヌは父親の勧めによりパリの法律学校に進み、そこでデュマやポーなどの文化人と交流して作品の発表を始めますが、同時に科学を愛し、「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という言葉を遺しました。あの”途方もない空想”なのか、それとも”手を伸ばせば届く未来”なのかというヴェルヌの想像の翼に憧れるのは、子供ばかりではありません。あの運転手が見せてくれたのは、そんなヴェルヌの原風景とも言える景色でした。

それからも私は何度かナントを訪れ、行く度にヴェルヌの丘に立ち寄り、ツアー参加者にヴェルヌの話をしましたが、ヴェルヌを知らず、丘に辿り着けない運転手もいました。また、ナントを繁栄させた交易品として、砂糖や、それから黒人奴隷が含まれていたことも聞かれれば答えました。空想物語よりも現実の歴史や経済に関心がある方も多いのです。

19世紀の航海で実用されていたストームグラスですが、のちに結晶化には気温や湿度、気圧なども複合的に作用することがわかり、より合理的な気圧計や無線などにとって代わられることになりました。私はフランス担当からポルトガルなど別地域の担当になり、やはり大航海時代や地中海交易に思いを馳せ、今はさらに別の業務をしながら、コロナ下で自由に旅ができない旅行業界で今できることを模索して過ごしています。

友人たちが私のそんな思いを知るはずもなく、おそらくロマンチックな置物としてプレゼントしてくれたのでしょうが、ストームグラスを見ていると、今はもう遠いナントの丘の風景が浮かび、遥かな大航海時代の海水がガラス容器の中に入っているような気持ちにさえなるのです。


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