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高田渡とレッドベリーとシェフチェンコ

くつが一足あったなら
私も踊りを踊るのに
そのくつさえもないのに
くつさえもないのに
笛や太鼓を叩いても
ただ切なさばかりが増すばかり
この世が嫌になるばかり
嫌になるばかり
Irene goodnight, 
Irene goodnight
Goodnight Irene, 
goodnight Irene
I'll see you in my dreams

─ 高田渡 「くつが一足あったなら」 


フォークミュージックの世界ではしばしば、既成の楽曲(主に伝承曲)のメロディに自作の歌詞をあてて歌うという手法がみられる。また文学と親和性の高い分野であることから、既成の近現代詩を歌詞として扱い、自作のメロディをあてて歌うという手法もある。

高田渡の後期傑作「くつが一足あったなら」は、この2種類の創作形態から成り立っている歌だ。すなわち、相互関係のない既成のメロディと歌詞を組み合わせて自作曲に変えている。こういった試みは高田渡以外のフォークシンガーからはきいたことがない。メロディは、ザ・ウィーバーズが1950年に全米で大ヒットさせた「Goodnight Irene」。オリジネイターは彼らではなく、大ヒット前年に病死した黒人歌手レッドベリー(1888-1949)である。

レッドベリーは甚だ素行が悪かった男で、約60年の生涯のうちに殺人罪を含む幾多の刑罰を受けた。そのたび、自らの音楽の才能が救いとなり再起に至っている。本作はなんと収監中に誕生したらしい。楽曲構成は演奏によって微妙に異なり、省かれるパートもある。歌詞をすべてつなげてみると、どうやら“アイリーン”とは、親の反対で家庭をもてぬまま早逝した女の名前。恋人だった男は離別後よそで家庭をもつもののうまくいかず、不摂生な暮らしをつづけ、姿のないアイリーンに人知れず「おやすみ」と語りかけている。囚人が考えたとは思いがたいラブストーリーだ。

Asked your mother for you
She told me that you were too young
I wish, dear lord, 
that I never seen your face
I'm sorry that you ever was born
Irene goodnight, 
Irene goodnight
Goodnight Irene, 
goodnight Irene
I catch you in my dreams

─ Leadbelly 「Goodnight Irene」 


高田渡の「くつが一足あったなら」では、原曲のコーラス部分(Irene goodnight…の部分)だけそのままに、歌詞の物語は一新されている(決定的な違いは一人称が男から女に変更されている)。しかしどうだろう、醸しだされる空気感といったものは変わらないではないか。おそらく、運命に阻まれ思うように生きられない人々の“切なさの芯”を作者が見事にとらえているからだ。高田渡が「Goodnight Irene」のメロディにのせた新たな悲劇、その出どころは、19世紀ウクライナの巨星タラス・シェフチェンコが遺した詩である(訳詩:渋谷定輔)。

シェフチェンコは、近代ウクライナ文学の始祖とされるほどの詩人であり、一方では画家、また一方では活動家でもあった。当時同国はロシア帝国の支配下。ウクライナ語は母国語として認められていなかった。農奴出身の彼は文才によって一度は自由民になったが、ウクライナ語を用いた自作の詩を通じて、農奴制を残す国家を痛烈に批判。結果、皇帝の命によりサンクトペテルブルクの刑務所に収監され、10年間の流刑生活を送り、筆を持つことさえも禁じられたという。

世界の表と裏を行き来する中で、普遍的悲哀をもつ詩(うた)を遺した生涯・・・そんな見方をしてみると、収監の理由こそだいぶ違うものの、レッドベリーと重なりもする人物であり。民衆の生活の最底辺を見つめ続けた高田渡にとって、自分の歌に招きたくなる詩人であることもよく分かる。

今頃かの3人は何処で眠っているのだろう。とかく、グッドナイト。

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