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食べていればなんとかなる

 不安だった。
 日々伝えられる感染者のニュース。賑やかだった街並みに人気ひとけが無くなり、スーパーやドラッグストアの商品棚は、どんどん品薄になった。前を歩いていた人が落とした物を、拾ってあげることさえできない。

 そんな状況でも、夫は仕事に行く。リモートワークができない仕事だからだ。人と会わないわけにはいかない。そのことが、私を更に不安にさせた。

 三密を避け、マスク手洗いうがい以外に、感染を防ぐすべはないものか。
 そんなことを悩んでいたとき、私は母から曾祖母そうそぼ、私のひいおばあさんにあたるの人の話を聞いた。

 私の曾祖母は明治生まれ。食べることが大好きな人だった。体調不良で気持ちが悪くても、天ぷら屋さんの横を通ると、つい、お店に入ってしまう。天ぷらを揚げるごま油の匂いを嗅ぐと、具合が悪いのも吹っ飛んでしまうという、筋金入りの食いしん坊だった。

 当時、子供だった母は、曾祖母と枕を並べ、寝つくまでの時間を、おしゃべりして過ごすのが大好きだったそうだ。曾祖母は孫である母に、よくこんなことを言っていた。

「好き嫌いなく何でも食べなさい。人間、食べていればなんとかなる。私はしっかり栄養をとっていたから、スペイン風邪にかからなかった。人間は食べることが、何よりも大事なんだよ」

 スペイン風邪は百年前、世界中で猛威を振るった伝染病だ。日本でも多くの死者を出している。百年前と聞くと、歴史上の出来事のように感じてしまうが、私の曾祖母は、その時代を生きていたのだ。

 当時、曾祖母はスペイン風邪に罹った人を自宅で看病していたことがある。残念ながら、看病していた人は亡くなってしまったのだが、看病にあたっていた曾祖母は、一度も体調を崩すことがなかった。スペイン風邪が流行している最中さなか、曾祖母はいつも以上に、肉、魚、野菜、何でも食べて栄養をとることを心掛けていたそうだ。

 食べることは、少々の体調不良でも天ぷらに食らいつける、曾祖母ならではの感染対策だったのだろう。

「食べていればなんとかなる!」

 時代をこえて、私は曾祖母から、そう励まされたような気がした。食べることで、本当に感染を防げるかどうかはわからない。それでも、曾祖母の言葉には、スペイン風邪が蔓延した時代を生きた人の力強さがあった。食べていれば、本当になんとかなるかもしれない。

 私の心にエンジンがかかった。

 その日から私は、免疫力がつく食事を作るのに躍起になった。骨から煮出したスープが良いと聞けば、鶏ガラを鍋で炊き、腸内環境が大事と聞けば、腸に良い食材で献立をたてた。今ある健康を脅かされないように、自分の手を尽くして、夫や自分の健康を守ろう。ただそれだけを考えて、私は台所に立った。

 それからひと月ほど経ったある日のこと。私は夫の肌や髪に、ハリと艶が増していることに気がついた。
「あら? 何だか最近、お肌や髪の調子がいいんじゃない?」
 私が言うと夫は、
「もしかして、前より栄養のあるものを食べているからかな?」
 そう言いながら、自分の髪や頬を触って喜んでいた。

 口からとった栄養は、まず生命維持に必要な内蔵へいき、皮膚や髪に栄養が届くのは、身体の中でも一番最後といわれている。夫の肌や髪の調子がいいということは、食べた物の栄養が、身体の隅々まで行き渡っている証拠ではないだろうか。
 そんなことを考えていると、何だか自信が湧いてきて、このままコロナに勝てる気さえしてくる。何よりも、夫の健康を目で見て感じられたことは、私にとって大きな安心に繋がった。

 スペイン風邪の渦中にいた曾祖母の言葉が、長い時をこえて伝わり、私の心にエンジンをかけた。そのエンジンが回り続けていたからこそ、私はコロナ禍の不安に囚われずにいられたのだ。

「食べていればなんとかなる!」

 私にとってこの一言は、これからも大切にしていきたい心のエンジンだ。コロナが終息しても、きっとこの言葉は、私の心を動かし続けるだろう。


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