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三つのほくろ

 「あれ?宮下、宮下じゃない?」
 声をかけられ、視線を向けると、見覚えのある顔がそこにあった。
 そのとき私は居酒屋の小さなテーブル席に一人座っていた。ビールと焼き物を注文し、次は何を頼もうか考えながらメニューを見ていたところだった。
「やっぱり宮下だ! 元気?」
 ここいいかな? と訊くこともなく、当然のように私の目の前に座る。私が黙っていると、
「まさか、オレのこと忘れてないよね?」
 そう言って昔と変わらない笑顔を見せる。忘れるわけがない。高校時代、私が恋をした先輩だ。




 私は本を読むのが好きな高校生だった。校内の図書室でいつものように文字を追うのに集中していると、読んでいる本のページに、ちぎったノートの切れ端が差し込まれた。そこには、

本好きなの?いつもいるよね?

 と書かれてある。突然のことに驚き顔を上げると、そこに先輩がいた。戸惑いながら「あの…」と言いかけると、先輩は長い人差し指を自分の口元に置いて、声に出さずにシーッと言う。その仕草にドキリとした。
 先輩は持っているノートを広げ、図書館でいつも私を見かけていたこと、何の本を読んでいるか気になっていたことなどを綺麗な字でスラスラと書き綴り私に見せた。そしてノートの余白をトントンとペンで軽く叩くと、そのペンを私に差し出す。静かな図書室で、しばらく筆談が続いた。先輩は最後に

少し、外で話さない?

 と書いてノートを閉じた。手招きする先輩に導かれ、私は非常階段の踊り場へと連れて行かれた。その日からその場所は、私と先輩の隠れ家になったのだ。

 放課後の喧騒を遠くで聞きながら、先輩と二人でよく本や音楽の話をした。
「こんな話は君としかできないよ」
 そう言われ、身体が溶けそうなくらい嬉しかった。先輩から「好きだ」とはっきり言われなかったが、二人の間には恋の気配が漂っていた。

 しかし楽しい時間は急に終わりを告げる。先輩には同級生の恋人がいたのだ。甘い言葉を囁きながらも、私にはっきり「好き」と言わなかったのは、その本命の彼女がいたからだった。

 ある日私は人気ひとけ のない場所で、先輩の彼女と数人の上級生たちに囲まれ、先輩との関係を問われた。
「ただ話をしていただけです」
 私はそれ以上は何も言わなかった。自分の恋心を土足で踏み荒らされたくなかったのだ。これ以上話しても埒が明かないと思ったのだろうか。彼女は溜息をつくと、私の耳元に顔を近づけ囁いた。

「あなた知ってる?彼、お尻に三つのほくろがあるのよ」

 私は息を呑む。視界が一瞬グラリと揺れた。
 私の反応に満足したように彼女はニヤリと笑い、皆を引き連れて去っていった。その姿が遠く消えていくのと同時に、呼吸が喉元を突き上げてきた。体が震え、両手がどんどん冷たくなっていく。私はしゃがみ込み、しばらくその場から動けなくなった。



       
 今、お尻に三つのほくろのある男が、目の前で焼き鳥を頬張った。
 
「この店よく来るの? 今度また二人で飲もうよ。あの頃みたいにいろんな話したいなぁ。ねぇ、これから別の店で飲み直さない?」
 
 今でもオレのことを好きなんじゃないか。そんなことを考えていそうだ。自分はこの女に惚れられていたんだという優越感が、言葉の端々はしばしから漏れ出ている。浮気すれすれのドキドキ感を、また味わいたいのだろうか。先輩の左手に光る指輪を見ながら、私は自惚れて高くなったその鼻をへし折ってやりたくなった。

「実は私、高校のとき好きだった人がいるんですよ」

 その好きな人は先輩だったんです。そんな話を期待したのだろう。先輩のキタ!という表情を私は見逃さなかった。

「勘違いされていたら申し訳ないんですけど、実は先輩じゃないんです」

 そこから私は、架空の相手との恋愛話を、一切口を挟ませない勢いで先輩に披露した。こんなにも饒舌に嘘をつけるなんて、私の口もなかなかのものだ。予想外だったのだろう。先輩は「ニホンゴワカリマセン」とでも言いたそうな顔をして固まっている。笑顔が徐々に強張っていく男の顔をつまみに、私は残りの焼き鳥をガツガツ食べ、ビールをキューッと飲み干した。財布からお札を取り出し、テーブルに勢いよく置くと、私は立ち上がった。

「私の分、これで払っておいて下さい」

 小さな声で「ここはオレが…」と聞こえたが、それを無視して私は店を出た。

 自分に惚れていると思っていた女が、実は別の男を好きだった。それを聞かされたとき、人はあんな情けない顔になるものなのだ。思い出したら堪えきれなくなって、道の真ん中で吹き出してしまった。

 高校時代弄ばもてあそれたことは、今日の嘘でおあいこだ。
 スキップしたくなるほど軽い足取りで歩いていたが、ハッと気がつき足を止めた。あんな男に奢られてなるものかとお金を置いてきたが、もしかしたらビール一杯分くらい足りなかったかもしれない。

 まぁ、いっか。

 これも幼気いたいけな乙女心を傷つけた慰謝料だ。ビール一杯くらい、奢ってもらうことにしよう。






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