見出し画像

昔の傷も今の傷


 オリンピックパラリンピックの開閉会式の制作メンバーに、作曲家として名を連ねているミュージシャンが、過去にいじめをしていたことが、今、問題視されている。
 どういういじめであったか、どんな経過をたどっているものなのかは、ネットで検索すれば詳しく出てくる。

 こういうことが話題になると、メディアでコメンテーターが物申したり、ヤフーニュースのようなコメント欄、SNSなどでも個人的な意見が散見するようになる。そういう時、たまにみかけるのが
 「昔のことだから、もういいじゃないか」
 という、時間の経過を持ち出して意見することだ。

 実際そのミュージシャンがいじめをしたのは40年近く前のことで、そのいじめの詳細を本人が雑誌の誌面上で語ったのが1990年代のこと。
 確かにこれは昔のことかもしれない。しかし私は「昔のこと」という言葉を持ち出すことは、人の思考を停止させたい逃げ口上のように感じてしまう。

 いじめをした側は「昔のこと」として逃げ道を作ってもらえるのに、いじめを受けた側が、その傷をなかなか手放せず苦しんでいると「そんな昔のこともういいじゃないか」と言われてしまうのは、本当にやるせない。

 今回のような報道があると、過去のいじめを思い出して、胸が痛くなったり、苦しくなったりする人もいるだろう。過去はいつでも「今」になる。「今」いじめられているわけではないが、実際苦しい思いをしているのは「今」起きている現象だ。

 例えば、30年前に大怪我をして痛めた足が、数年経っても冬になると痛み出す、ということがある。30年前の怪我が「今」痛い。「今」大怪我をしているわけではないが、「今」足が痛むのだ。

 心にもそういうことが起きる。

 「人は、身体の古傷が痛むことには寛容なのに、心の古傷が痛むことには不寛容だ」という話を、どこかで読んだことがある。

 確かに苦しい過去を手放したほうが今を有意義に生きられるのは事実だ。それは傷を負ったほうも頭ではわかっている。しかし、その正論に、心はなかなか追いつかない。今の苦しみを手放せというのは簡単だが、いじめというものは、いじめられた側に強い自己否定を植え付けるので、その手放しの作業には、自愛や、認識の変更などが必要になる。

 「そんな昔のことで」「お前だけじゃない」「生きていれば皆苦しいんだ」という言葉で、当事者以外の人間が、苦しむ人の傷に蓋をしようとすることがある。そういったことを言われてしまうと、苦しんでいる本人も、こんな昔のことを今更思い出して情けない、と自己否定の悪循環に陥ってしまう。

 人は「ポジティブ」じゃない自分を否定しがちだ。私自身、大昔のことを思い出しては苦しんでいた経験があるが、いつも、そういう自分を「だめな人間だ」と否定していた。しかし、苦しいという心の反応を否定することは、根っこにある自分を、否定し続けているのと同じことだと私は思う。

 過去の傷は、自分の予測できないところで痛みだすことがある。今回のように「いじめ」が話題になれば、経験者の心の中がざわつき、痛みだすのは当然の心の反応だ。その痛みに「苦しむな!」と否定し抑え込むのではなく「あの時は辛かったな」と言うほうが、自分をなだめることができる気がする。

 昔の傷だって、今、痛いのなら、それは今の傷だ。今回のように過去のいじめの話を、被害者の心の向きがわからない状態で、第三者が「昔のこと」と安易に言い放つことに、私はもどかしさを感じてしまう。

 いじめに限らず、生きていれば傷つくことも多い。そんな古傷に苦しむ人には、時間という観念にとらわれ過ぎずに、自分の心を、自分のペースで癒やしてもらえたらいいなと、私は改めて思った。





お読み頂き、本当に有難うございました!