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思っちゃったんだからしょうがない

 感情が湧いてきて、その波に流されそうになる。
 いい感情というのは長くは続かないが、悪感情というのは、どんよりと長時間心を占拠することが多い。感情の波にさらわれていると、自分の思考も流されて思わぬことを考えてしまうものだ。物事を予測して、悪い方向に考えるときなどは、大概この波にさらわれている。

 私はこういうとき、
「やばい!また嫌なこと考えちゃった!」
 と思い、諫早湾の水門を閉めるように、感情の波を止めようとする。そして、その次の瞬間、
「やばい!また水門閉めちゃったよ!」
 と思い、即座に開門するのである。

 悪感情を止めるために水門を閉めたのに、すぐさま開門するのは、水門を閉めることが感情に蓋をしていることになると思うからだ。

 諫早湾の水門はギロチンと言われ、その勢い良く閉門する様子は、20年ほど前、ニュース映像で幾度となく流されていた。その問題をここで云々うんぬんするつもりはないが、水門を閉めることで、生態系に影響が出ていると聞く。やはり自然に逆らった行動というのは、どこかに悪影響を及ぼすのだろう。

 何かを思うことは自然なことで、それ自体を防いだり、止めることはできない。止めようとすると、どこかに無理がかかり、知らぬ間に悪感情が定着し、執着になってしまうこともある。

 感情が湧くというのは、頭が痒いのと同じようなもので、生きていれば起こる現象のひとつだ。問題なのは感情の波にさらわれてしまうと、心は大いなる妄想の旅路に出ることになり、そこからなかなか戻ってこれないことだ。私はよく、この感情の波に足を取られる。

 私は以前、マイナス思考になったり、嫌な感情が湧き上がると、そのこと自体に否定的な感情を抱いていた。でもこれは、頭が痒いことを否定しているのと同じことのように思うのだ。頭だって蒸れれば痒いし、乾燥しても痒い。痒いことすらダメ、というのは生理的現象そのものを否定することになる。頭が痒いのは不快ではあるが、いちいちそれを悪いことだと思って否定する必要はない。

 以前聞いていた、深夜のラジオ番組で「思っちゃったんだからしょうがない」という投稿コーナーがあった。当時は何とも思わずに、この「思っちゃったんだからしょうがない」をいう言葉を聞いていたが、今、改めて聞くと、これはなかなかの名言だと思う。実は今、私はこのコーナー名を、感情に流されないための魔法の言葉として使わせてもらっている。

 できれば感情の水門を閉じる前に、ぱっとこの言葉が思い浮かぶといいのだが、どうも私は修行が足りないようで、一度水門を開閉しないと、この、

「思っちゃったんだからしょうがない」

 が、浮かび上がってこないのだ。まぁ、そのことすら、しょうがないことなのだろう。

 そんなこと思ったらいけない、と制限をかけていることは、思いのほか多いと思う。お子さんがいらっしゃる方なら、
「子供に対してこんなことを思ってしまった!」
 なんて自己嫌悪に陥るような感情が湧くこともあるのではないだろうか。
「愛する子供になんてこと思ってしまったんだ!」
 と、頭を抱える優しい親御さんたちの姿が、目に浮かんでくる。

 ここだけの話、私も夫に「こんちくしょー!」と思うことはある。そんなとき、「いつもnoteのネタになってくれている夫になんてことを思ってしまったんだ!」と思い、自分を責めたくなってしまう。でも、最近ようやく、

 口に出して言うわけではないのだから、いいではないか。

 そう思えるようになってきた。「思っちゃったんだからしょうがない」と思って、自分の悪感情を右から左に流す。これだけで心の淀みが、少しはキレイになる気がする。

 でも「思っちゃったんだからしょうがない」と思い続けて、自分を甘やかしていたら、きっと私はどんどん悪い人間になってしまうのではないだろうか。と苦悩する人もいるかも知れない。(私です)
 でももう、そんなことを思うことすら「しょうがない」でどんどん流していくしかないように思うのだ。苦悩したがる感情に「自分が悪い奴になってしまうかも!」なんて美味しい餌をやることはない。

 そのうち「思っちゃったんだからしょうがない」のことすら、思い出せなくなるくらい、当然のように感情を流すことができれば最高なのだが、その領域に行けるまで、あとどのくらいかかるだろうか。

 未熟者の私には「思っちゃったんだからしょうがない」の手助けが、まだまだ必要なようである。




諫早湾の水門、ダーッと閉門する様子が衝撃的でしたね。



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