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この曲を聴いて、私は何度でも心打たれるのだ

 もし無人島にCDを持っていくとしたら何を持っていくか。
 そんなことを考えるのが好きだった。そのとき選んだ曲がどんな曲かで、今の自分がどんな気持ちでいるのか、何となく感じることができる。今、自分が好んでいるものを、より実感できることは楽しいものだ。

 今までは、時と場合によって思い浮かぶ曲が変わっていたのだが、最近はそれが固定されつつある。

 そのひとつがミュージカルJesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターGethsemaneゲッセマネの園である。

 このJesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターは、イエス・キリスト最後の7日間を描いた、ミュージカルの巨匠アンドリュー・ロイド・ウェバーの出世作だ。セリフがほぼ無く、イエスが磔になるまでのドラマが歌だけで表現されている。

 イエス・キリストが捕縛される前夜、一人、ゲッセマネの園で思いの丈を吐き出すこの歌は、キリキリとした張り裂けんばかりの感情に満ち満ちている。主導者としてのイエスではなく、若き青年イエスのとしての思いが溢れ出すような歌だ。

 私はGethsemaneゲッセマネの園を聴くと、ぐっと目の奥が熱くなってしまう。
 この世の孤独をすべて一人で背負ったイエスの思いに触れたような気がするからだ。ユダの裏切りを知りながら「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」 と送り出し、弟子のペトロには、「鶏が鳴く前に私を三回知らないと言うだろう」と言う。その悲しみはどれほどのものであったか、想像するだけで胸が痛む。
 恐ろしいまでの孤独が、ゲッセマネの園にあったのだと、この曲を聴くと思わされてしまうのだ。

 ミュージカル、Jesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターは、宗教的というよりも、濃厚な人間ドラマだと思う。それぞれの登場人物の心情が、音楽と共に色濃く表現されるがゆえに聴く者の胸を打つのだ。

 私が初めてキリスト教を意識したのは、高校時代に読んだ太宰治の「駈込み訴え」であった。

申し上げます。申し上げます。

 こんな話し言葉で始まるその物語からは、自分の思いがイエスに伝わらない葛藤、そしてイエスからパンを口に入れられたときの絶望が、ひしひしと伝わってくる。読みながら、その揺れ動く思いが自分の心臓をも揺らすようだった。

 太宰の「駈込み訴え」の影響もあり、Jesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターに出会うまで、私は完全にユダ贔屓だった。あまりにユダが可哀想に思えて、イエスに不満すら感じていた。
 最後の晩餐のとき、他の弟子がいる前で「私を裏切るのはお前だ」と言われてしまうユダが、あまりにも哀れでならなかったのだ。
 イエスを銀貨30枚で売ったところで当然ながらユダは救われない。首をくくって自ら命を絶ってしまう。イエスと出会ったことで、心かきむしられる壮絶な葛藤を抱えざるを得なかったユダに、私はどうしても思いを寄せてしまうのだ。

 そのユダが自分の葛藤を歌う曲がHeaven on Their Minds彼らの心は天国にである。
 人々がイエスに対し狂信的になっていくことを危惧したユダが、自分の言葉に耳を傾けてほしいとイエスに訴えかける歌である。
 この曲から、Jesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターの物語は始まるのだ。
 不穏を感じさせる前奏が始まると、ユダは静かに、その思いを吐露するように歌い出す。こちらを振り向いてくれと言わんばかりに「ジーザス!」と叫び歌うユダの姿は、裏切り者という汚名も吹き飛んでしまうくらいの、震えるようなかっこよさがある。ユダの苛立ち、葛藤そのものであるこの曲は、いつ、何度聴いても、骨の髄から私を痺れさせてしまうのだ。

 それとは逆に、Pilate's Dreamピラトの夢は、訴えかける激しさはなく、Jesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターで歌われる他の楽曲と比べても、大きなうねりのない曲だ。
 ピラトとは、古代ローマの皇帝直轄領とされたユダヤ、イドメア、サマリアを治めた第5代総督である。
 「イエスを殺せ」という群衆の熱にピラトは圧倒され、その役割を自分の手から離そうとするのだが、結局はその宿命から逃れることはできなかった。イエスが無実と知りながらも荒ぶる群衆の声に抗えず、ピラトはイエスの処刑に踏み切ってしまう。

 Pilate's Dreamピラトの夢は約1分半ほどの短い曲だ。
 自分の見た夢を誰に聞かせるでもなく訥々とつとつと歌うこの曲は、抗えない運命のようなものを感じさせる静けさがある。見えない何かが自分にひたひたと迫りよるのを感じつつも、それをどうすることもできない。何かを感じてしまえば、恐らく命を取られるほどの罪悪感に襲われてしまうだろう。だから何も感じないように、ただ静かに、夢で見たことを歌うのだ。Pilate's Dreamピラトの夢は、自分がこの先、未来永劫、多くの人々から、その行いを責められることを予感している曲でもある。

 すべての人間の業や悲しみや孤独が、Jesus Christ Superstarジーザス・クライスト・スーパースターには詰まっている。この物語を歌に乗せることで、イエス、ユダ、ピラト、それぞれの感情がそのまま、この胸の鼓動となって伝わってくる。
 理解し合えない怒りや悲しみは溝を生む。しかし、人の心に潜む淀みや影を感じきり、また自分の内にもそのようなものがあると知っていたからこそ、イエスは人々を許したのだと私は思う。

 Gethsemaneゲッセマネの園の最後でイエスはこう歌っている。

Bleed me, beat me, kill me, take me now 
十字架にかけろ 殺すなら今だ
Before I change my mind
私のこの心 変わらぬ間に

作詞 ティム・ライス  訳詞 岩谷時子

 死を前にして、イエスもきっと自分の身に起こるであろう出来事から、逃げ出したくなるほど震えていたのだ。
 私はこの曲を聴くと、固い決意が揺らいでしまいそうな、青年・イエスの心に寄り添いたいと思ってしまう。
 何をしても、その孤独を絶対に癒やすことはできないだろう。だとしても、その背中が震えているのなら、さすってあげたい。
 その思いはきっと、イエスの足に香油を塗ったマグダラのマリアが感じていたものと、どこか似ているのかもしれない。畏れ多くも、私はそんなことを思ってしまうのである。






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