ファロスの見える家         恋の予感

【これまでの経緯】
 大晦日の一週間前にひろ子がファロスの見える家にやってきて、第九のコンサートはとてもうまくいったと言った。そして、『フィガロの結婚』の主役のスザンヌの役をすることになった。


 ひろ子は壮介に顔を向け改まると、お願いがあると切り出した。
「『美声玉』、百個お願いできないでしょうか」
「ええっ。百個もですか。できないこともないですけど、どうしてそんなにたくさん。十個か、二十個もあれば十分じゃないですか」
 ひろ子は、実は、『美声玉』の秘密をメンバーに打ち明けたんです、と言った。


「あたしの声がどんどん良くなるのを、コーラスのみんなが不思議に思っていたらしいの。あたしが練習の前にブツブツ言いながら『美声玉』を食べているのを見たひとがいて、それがひろ子さんの秘密ですかって、それもみんなに聞こえるような大きな声で」
「それで『美声玉』のことを白状したってわけね」
 ひろ子は、そうなのとうなずいた。
「ひろ子さんの声がよくなったのなら、あたしも欲しいってみんなが。だから、仲間のみんなに五個ずつ配りますって約束しちゃったんです。だからお願いします」
 ひろ子は深々と頭を下げた。


「そういうことでしたか。わかりました。今日は間に合いませんので、明日でよかったらご用意しておきます」
「うれしい。よかったわ。断られたらどうしようかって、でも、『美声玉』を食べて、みんなが上手になったら、あたしどうなるのかしら……」
「それは大丈夫よ。そうなったら、壮さんがまた新しい魔法のスイーツを作ってくれるから、安心していいよ。そうでしょ、壮さん」
渚沙は勝手なことを真顔で言った。
壮介はそうですね、と笑いながら答えた。そうして、ひろ子はにこにこしながら帰って行った。


『美声玉』の喉への効果は絶大だったようで、合唱団のメンバーに受け入れられ、次の週は二百個の注文がひろ子から届いた。その昔はお婆ちゃんが作るキンカンの甘煮だった『美声玉』が、壮介の手で一新され、新しいスイーツとして蘇った。そして、「フォロスの見える店」の第一号の外販商品となった。このことを中山商店の帆吏さんは、よかったよかったと一番に喜んでくれた。

チョチョチョピー、チョチョチョピー。
早春の夕暮れ時、庭にメジロの鳴き声が響いていた。
今日の美咲は休日で、愛之助を連れて散歩に出かけ、先ほど帰ってきたところだ。美咲は愛之助のお皿に水を入れ、それを愛之助はぺろぺろなめている。そして、美咲は壮介に何か飲み物を注文しようとカウンターの真ん中のスツールに座ろうとした。


 チリリン、優しくドアベルが鳴り、加奈が中を窺うようにして入って来た。気のせいかもしれないが、ドアからのぞいた顔が明るく輝いている。
「こんにちわー。ご無沙汰していました」
「いらっしゃい。加奈さん。なんだか嬉しそう」
 美咲はにこやかに声をかけた。
「ええー、そうですかー」
 加奈は女学生のようにはにかんだ。
「加奈さん、何かお望みはございますか」
 壮介は注文を聞いた。


「何故だか急に壮介さんのスイーツが食べたくなって。何かお願いできますか」
 壮介は、わかりました、と返事をするとキッチンに入った。
加奈は時折ニヤニヤしている。美咲はそんな様子の加奈に声をかけるタイミングをつかみかねていた。
「お待たせしました」
甘い香りとチョコレートの匂いがする。ネイビーブルーのカフェオレボウルが加奈と美咲の前に出てきた。ボウルには黄色い泡が器のふちまでいっぱいに満たされ、その泡の上に茶色い粉がかけられている。このボウルを手に持つとほんわかと暖かい。


「チョコレートエッグノッグです。暖かいうちにどうぞ」
加奈はカップを手に取ると鼻先に近づけた。
「ココアのいい匂い。この黄色い泡はなんですか」
「それはたまごです。ホイップして、その上にココアを振りかけています」
加奈はスプーンを手にするとココアのかかったたまごホイップをすくい取り、口に運んだ。
「ふわっとしたたまごのスフレとココアの香りが心地いいです」
そのあと、加奈はマグカップに口をつけ、スフレをズズズっと吸い上げた。その下から熱いものが唇に触れ、あっ、と声を出した。
「たまごの下に何か別のものが。これ、チョコレートミルクですよね。それとこの香りは、……柚子(ゆず)だ。柚子ですよね。爽やかで大人の味がします。それにとってもオシャレ。そう思わない、美咲さん」


「大人の味ですか……」
う~ん。美咲はどう言えばいいのか返事に困った。散歩から帰ってきたところなので、できれば冷たいものの方がよかったくらい。
「確かに、そうですね……」
美咲はその場の雰囲気を壊さないようにうなずいた。
「美咲さんは、お付き合いをしている方はいらっしゃるの」
「えっ。い、いませんよ。仕事もまだまだで、最近やっと先輩たちと同じようにできるようになったところなので、恋なんてとんでもないです」
突拍子もない質問だったし、いまの美咲は仕事のことで頭がいっぱい。できれば、恋だの結婚だのという話題は一番問われたくない質問でもあった。だから、これ以上この話題には深入りしたくなかった。


 壮介は、加奈さんの言いたいことって……。はたと思い当たるとキッチンに入った。するとすぐに南海子が話しかけてきた。
(ねぇ、加奈さん、ひょっとしてあれかしら)
 ――ぼくもそうだと思います。
そうこうするうちに、ふんわりと甘く何かが焼ける香ばしい臭いが、加奈と美咲の鼻孔に届く。
「はい、お待たせしました」
 壮介はふたりの前に白磁のプレートを差し出した。加奈は思わず鼻をひくひくさせ匂いを嗅いだ。


 ピンク色のふんわりと仕上げられたパンケーキが二枚重ねられ、中にホイップクリームが挟んである。パンケーキの横に真っ白なホイップクリークと赤いイチゴ。黒いのは小豆(あずき)餡(あん)だ。それと鮮やかなピンク色の桜の塩漬けが添えられている。見るからに色とりどりで、目にも優しく美しい。
「まあ、きれい。すてき」
 加奈は女子高生のような華やいだ声を出した。金色のナイフとフォークを手にするとピンクのパンケーキを一口サイズに切り分けた。それをパクリと食べると、う~ん、とくぐもった声を出した。


「クリームが……、甘酸っぱい……、ウメの香りがする」
ホイップクリームには蜂蜜入りの梅酒が練りこまれており、口の中でふわりと溶けていく。優しい舌触りの中に甘酸っぱい梅の香りが鼻の奥に早春を呼び込んでくる。
 次に、加奈は小豆餡をスプーンですくい、口に入れる。
「ああー、このあんこ、美味しい。あたしが食べているドラ焼きの餡子と味も舌触りもぜんぜん違う」
 美咲もその声につられるように餡を口にし、違いが分かったのだろう、目を見開くとカウンターの壮介を見た。


「ええ、そうです。パンケーキに合うように餡の中にバターを溶かし込んでいます。いかがですか」
「餡にバターですか。まったく違和感がないわ。この餡子、なめらかで絶妙です」
 加奈は餡とパンケーキを一緒にして口の中に入れた。
 この餡は、壮介が南海子と一緒に奈良から信楽を巡る旅をしていたとき、南海子に誘われて偶然入った茶店で食べた丁稚(でっち)ようかんをヒントにしている。店の名前は、確か……、久米屋だったと思う。ようかんが美味しくて南海子が、どうして作るのですか、と店員さんに訊くと、いろいろと秘伝があるそうですよ、と笑っていたのを思い出した。記憶を辿り、そのときの味を思い出しながら工夫したものだった。


「この餡子とパンケーキとイチゴを一緒に食べるとね、餡の甘味とイチゴの酸味、パンケーキのふわふわ感が混ざりあってたまんないわ」
 加奈は背伸びをするように体をのけぞらせると、おいしーと声を上げた。そして、二枚あった薄桃色のパンケーキはすっかりきれいになくなった。
「パンケーキとクリームと餡を一緒に食べても美味しいです。優しい甘さになり、ふんわりしたパンケーキの生地の食感ともよく合っています」
 美咲も満足したようだ。


 壮介はふたりが食べ終わると同時に、茶色の陶器のお皿に載せた抹茶のアイスクリームを供した。
「あたしアイスクリーム、大好きなんです。それも抹茶が一番好き。抹茶のこの香りを嗅ぐと心が休まるし、冷たくて、甘くて美味しいのよねぇ」
加奈は、う~ん、と悦楽の声を発する。
「これ、最高に美味しぃ」
 何度も何度もうなずきながらスプーンを口に運んだ。
 次に壮介は白磁の湯飲みに温(ぬる)めの白湯(さゆ)を入れ、ふたりの女性の前に置く。


「プレートに添えた桜の塩漬けをこのお湯飲みに入れて、桜茶をお楽しみください」
ふたりは言われるままに桜の塩漬けを湯飲みに入れる。すると、小さく縮んでいた桜の花が白を背にしてパーっとピンク色に花開いた。そして、春の香りがふたりを覆い包む。
「ああー、桜の匂いが心地いい。春が来たみたい」
満足した二人は、桜茶を啜ると口の中がすっきりと爽やかになる。
「ねえ、壮介さん。このスイーツの名前は何と付けたんですか」
 美咲は桜茶を手にして訊いた。


「春が待ち遠しい。なんだかウキウキするでしょう。恋を待ち焦がれる。だから、『恋の予感』です」
「『恋の予感』か。あたしも素敵な恋がしたいなぁ」
 恋はまだまだと言っていた美咲だったが、まだ見ぬ恋を夢見るようにうっとりと、どこか遠くを眺めている。
「もちろん、美咲ちゃんにもやって来ますよ」
壮介はにっこりと笑った。そして、加奈に顔を向ける。
「桜の花のように、加奈さんの前途も大きく花開きますようにと願いをこめました」
「まぁー、うれしい。ありがとう、壮介さん」
 加奈はぽっと、頬を桜色に染めた。


「実は、あたし、結婚。結婚、するんです」
「えっ、そうなんですか。そ、それは、おめでとうございます。お相手の方ってどんな方なんですか」
 美咲は自分が告白されたようにワクワクした。
 壮介もおめでとうございます、と声をかけた。
 加奈はありがとうございます、と笑顔で返すと、はにかみながらも恋のなれそめを話し始めた。
                              つづく
【やったね!】予告
 加奈の婚約者は幼馴染の福田優介だった。雄介はK町のマスク工場の三代目だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?