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ファロスの見える店          慰め

【これまでの経緯】
 重そうなザックを担いだ織部安雄が入ってきた。パソコン整備士になったと言い、この町で仕事をしたいと言った。美咲は看護師長から一人前になったね、と褒められた。


 壮介と渚沙はふたりと一匹を見送ると、入れ違いにチリリンとドアが開いた。今日ふたり目の客が入って来た。そんなささやかなことが、この店にとっては大きな驚きだ。
「いらっしゃいませ」
壮介が応じた。
「あら、ひろ子さん。いらっしゃい」
渚沙がにこにこしながら声をかけた。


「渚沙さん、壮介さん、こんにちは。なんだかとっても懐かしいわ」
 ひろ子はふふふと笑うと、渚沙の隣のスツールに腰をかけ、肩にかけたトートバッグを隣のスツールに置いた。
「懐かしいだなんて、ついこの前じゃない。大袈裟よ」
「ご注文はございますか」
「注文は、あるわよ。壮介さんお勧めのスイーツをお願いします」
ひろ子は意味ありげに、ふふふとまた笑った。


「わかりました。では、適当なものを、気に入っていただければいいのですが……」
 壮介がキッチンに向かう。
(ひろ子さん、楽しそうね。きっといいことがあったのね)
 ――たぶんね。これを使おうと思うけど。
(いいと思う。それと美声玉も忘れないでね)
 ――ああ、わかってる。


カウンターでは渚沙がひろ子に声をかけた。
「ひろ子さん、なんだか嬉しそうね。なんかいいことあったみたいね」
「そうなの、聞いてくれる。あたしね」
声を弾ませて話そうとすると、再び口に手を当て、ふふふ、と笑う。
「今日のコーラスの練習で初めて、声が出たの」
「それじゃあ……」
 ひろ子は、コックリとうなずいた。遂にというか、ようやく声が出たその瞬間(とき)の感動が蘇ってきたのか、目に涙を潤ませ、キラキラ輝いた。


「ええ、そうなの。ほんの少しなんだけど。コーラスの練習の前に最後の『美声玉』に声が出ますようにとお祈りして、そのあと練習に臨んだら、本当に声が出たのよ。嬉しくて、嬉しくて。それもこれも『美声玉』のおかげ。壮介さんのおかげです。それを報告したくって、ありがとうございました」
 ひろ子は『美声玉』が入っていた空のタッパーをトートバッグから取り出し、カウンターの上に置いた。


 キッチンから「いやいや」、と壮介のくぐもった声が届く。
「声が出ただけも奇跡だわ。それでね、皆さんの迷惑にならないように、歌えそうなところだけ、小さい声で歌ったのよ」
「それでいいんじゃない。小さなひと声、じゃなくって大きな前進よ」
 そうよね。そうよね、とひろ子は自分を納得させるように繰り返した。
「はーい、お待たせしました」
 クープ型のシャンパングラスにオレンジのゼリー、その上にホイップクリームがデコレーションされ、真っ赤なイチゴと緑のミントの葉が飾られている。


「まあ、きれい。美味しそう」
 ひろ子は金のスプーンを持ち、クリームを掬い上げるとそっと口に運ぶ。クリームのほのかな甘さと滑らかな口当たり。その中に何かコロコロとした塊を見つけた。
「これって、何かしら」
「香(かおり)梨(なし)という品種の梨です。シャクッと噛んでみてください。林檎(りんご)に似た香りと爽やかな甘みがあるでしょう」
ひろ子は口の中の香梨を奥歯で噛んだ。


「本当だ。梨の甘さと、優しい林檎の香りがクリームと混ざり合って、いいわねぇ。壮介さんが作るスイーツはどこか違うのよね。味とか香りとか、触感とか、いろんなものがアンサンブルされていて、うまく表現できないんだけど、不思議と何かを感じさせるのよね」
 隣で渚沙もオレンジゼリーを口にしながら、うっとりしている。


「このゼリーはどうやって作るの。あたしにもできるかしら」
「ええ、もちろん誰にでもできますよ。八朔(はっさく)とオレンジを絞って、砂糖とレモンで甘みと酸味を調整します。それに白ワインに溶かしたゼラチンを加え、冷やすだけです。後は、ホイップクリームに香梨を刻んで加え、固まったゼリーの上にグニュグニュっと絞り出して、あとはイチゴとグリーンリーフをちょんと添えれば出来上がりです。簡単でしょ」
 壮介は語り部のようにレシピの説明を続ける。


「梨に含まれるソルビトールという成分が喉にいいんです。オレンジはビタミンCがたくさん入っていますから、疲労回復にはもってこいです。それにイチゴは抗酸化作用があるルテインが豊富に含まれています。だから、健康にとってもいいんですよ」
「ひょっとして壮介さんはあたしのことを思ってこれを……」
「ええ。気に入っていただけたらいいのですが」
「もちろんよ。そこまであたしのことを思って作ってくれるスイーツなんて、どこを探してもないわよ。とっても嬉しいです。それに美味しいし。大好き!」


 ただ、スイーツが好きだと言われただけなのに、壮介は耳まで真っ赤にしていた。
「それで、このスイーツの菓銘は?」
 すでに儀式になったかのように渚沙が訊く。
「『慰め』と名付けてみました」
「なぐさめ……?」
ひろ子は声に出してみる。次の瞬間、はっとした。
 ――壮介さんはこのスイーツであたしを慰めてくれる。あたしも壮介さんのようにひとの心を慰め温かくするような歌声を届けよう。
 ひろ子はそう決意を新たにした。


「壮介さん、渚沙さん。今度来るときはもっといい報告ができるように、コーラスの練習、もっともっと頑張るから。応援して下さい。それでお願いがあるの」
「『美声玉』でしょ。ここに二十個入っています。お持ちください」
 壮介はこのことを予想していたのだろうか、ひろ子にキンカンのコンポートをタッパーに入れ直して渡した。
「今度の『美声玉』はさらに強力に、ひろ子さんがいい声で歌えるようにと祈りを込めて作りました。だから絶対に大丈夫です」
 壮介はタッパーの上で手のひらをぐるぐる回しながらブツブツと呪文をかけた。


「ありがとう、壮介さん。最初の『美声玉』にもお祈りが込められていたのね」
「ええ。今回のは、以前のものよりも何重にもしっかりと祈りを込めました。だから大丈夫」
「そうだったの。そのお祈りがきっと効いたのね。なんだかもうお呪いが効いてきたみたい。練習の日が待ち遠しいわ」
 ひろ子は弾けるような笑顔でドアを開け出て行った。すると、
♪フロイデ シューナー グェッターフンッケン……
ベートーベン第九の『歓喜の歌』が遠ざかりながらかすかに聞こえてきた。


   『慰め』 
  あなたは本当に慰め上手
  私はいともたやすく笑顔になる
  あなたは笑った私を見つめ
  優しく抱く
  甘いあなたのスイーツで・・・
               宇美                                                            

                         つづく

【青春】 予告
 詰襟の制服を着た細身の男の子が店を訪ねてきた。そして、思いもよらない「甘酒」を注文した。男の子は、北大路左内といった。

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