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竹次郎先生

些細なことだった。

給食当番に暴言を吐いたのだ。

それが、竹次郎先生の耳に入った。

「前に出なさい」

恐るおそる、教壇の横に立った。

いきなりビンタが飛んできた。
何発叩かれたか自分ではわからなかったが、あとで友達が教えてくれた。
往復ビンタで5発半。
つまり単発では11発。

誤解のないように言っておく。
竹次郎先生は温厚で、それまで怒った姿は見たことがなかった。
見るに見兼ねてのことだったと振り返って思う。

私は生意気だった。

「君は転がる石だ。みんなを巻き込んで転がって落ちていく石だ!」

竹次郎先生の言葉が飛んできた。

「!」

その言葉の方が痛かった。
止められない自分を自覚していたからだ。

その日の午後は、私の問題を話し合うことになった。
先生が一人ひとり順番にどう思ったかを話してみなさいと。

誰が何を話したかはよく覚えていない。
ただ、何人かの女の子が泣きながら話していたのは記憶にある。

家に帰っても、そのことは親に話せなかった。
そんなことを言ったら、また親からゲンコツをもらう。
先生に怒られるのは、お前が悪いからだと。
そういう時代だった。
悪いことを悪いと職を賭して教えてくれる先生がいた。

不思議に顔は腫れていなかった。

小学5年生の時の思い出である。
先生の心も痛かっただろうな。
あの時、叱られなければ私はどんな人生を歩んでいたか?
振り返れば感謝しかない。

その後、私は秋田高専で知り合った仲間とフォークソングのバンドを組み中退して上京、一枚だけだがポリドールというレーベルからレコードを出した。
竹次郎先生が励ましの手紙をくれた。
涙が出た。

夢破れ男鹿に帰って就職した。

20数年後、私は男鹿半島観光ボランティアガイドなるものに参加した。
その2期生に竹次郎先生が入ってきた。
新人への研修を私が担当することになった。
「やっと、この時が来ました。私の恩師に講義することはおこがましいながら、私の最大の恩返しであります」
緊張しながら話す私を、先生はにこにこしながら見守ってくれた。

ゴジラ岩DSC_3732

門前という地区の手前に潮瀬崎という岬がある。
そこに、ある角度から見るとゴジラに似た岩があり、当然のように私は「ゴジラ岩」と心の中で名前をつけていた。
写真でどう表現したらいいのか考えているうちに5年が経ったある春の日、釣りをしていたら見事な夕焼けになった。
「これだ!」と閃き、夕日を背景にゴジラ岩をシルエットにした写真を撮った。
それがゴジラ岩を世に出すきっかけになった。

講義が終わったあとに先生は、「君は男鹿の宝になるものを世に出したんだよ」言ってくれた。

さらに私が撮った男鹿の写真を紹介するというイベントが行われた時も、私の男鹿への思いを引き出してくれるような質問をたくさんしてくれた。

「800年の霊夢を探せ」という男鹿の五社堂800年祭を記念して上演される演劇の原案を書いた。
先生はそれを観て感激したといって、詳細な感想を書いた手紙をくれた。
またまた涙が出た。
ただただ嬉しかった。

「君は転がる石だ。みんなを巻き込んで転がって落ちていく石だ!」
ローリングストーンズ。

私はローリングストーンズよりイーグルスが好きだ。

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