負の連鎖を断ち切るのは…

愛情不足・愛情表現不足が起こす負の連鎖。
断ち切るのが子どもからでは、いけないのでしょうか。

りさり先生のこの作品をそんな風にしか読めない方がいるのはとても悲しいです。事情があり親元で暮らせない子どもが、毎日どれだけ肩身の狭い思いでこの家にいることか。それに対しておばさんの態度はあまりにも大人気ないとは思いませんか。子どもが愛される努力をするよりも、まずは大人が愛する努力をすべきです。大人の事情で預けられた子どもが大人の顔色をうかがってビクビクしなくても済むように。どんな子どもだって、大人に守られ愛されて生きる権利があるのではないでしょうか。

上記の引用は前記事に寄せられたコメントです。

正直言って、この漫画で叔母に対して許せないこと、どんな状況であれ許されないことは暴力をふるったであろうシーンです。
前記事ではあえてそこには触れず、言葉の暴力も許されたものではないけれど、叔母にとって少女たちの養育の義務は理不尽なものではないか。
叔母も少女らの親の被害者であり、理不尽に時間とお金を搾取される側だと同情されても良いのではないか。
養育の義務を当たり前と享受せずに、子どもが先に感謝を述べても良いのではないか。
大人を新たに教育する場を作るのは難しいのだから、教育の機会を与えられている子どもから変われるようにしてみるのはどうか。
そう問題提起してみました。


子どもだからと言って守られ愛され生きる権利を主張するのは、本当に正しいことでしょうか。
大人の顔色をうかがう必要はないのでしょうか。
できることをする必要はないのでしょうか。
大多数の子どもが受けている恩恵を得られなかった子どもは、本当に不幸なのでしょうか。


私は幸いにも子どもが愛情を注いでくれたおかげで、どうにかこうにか母親を続けられています。
正直いって、愛情表現が苦手な脳の障害を持ったお子さんと向き合っている保護者の方々には頭が上がりません。
それほどまでに、無償の愛を与えることが難しい人間です。
見返りを求めない奉仕活動が出来ません。
「いただきます」「ごちそうさま、美味しかったよ」がないと、ご飯も作る気が起きません。
「ありがとう。楽しかった。また行こうね」と誘われないと、お出かけに連れていく気が起きません。

子どもが愛される努力をするよりも、まずは大人が愛する努力をすべきです。 

私の考えは前記事で紹介した通り、努力なく愛情や恩恵を享受する権利を持つのは9つまでです。


(未就学児時代)ミルクを飲んでゲップして褒められる0ちゃい、立って歩いて褒められる1ちゅ、意思表示ができるようになる2ちゅ、拙くも意思伝達ができるようになる3ちゅ、ひとりトイレやご飯ができるようになる4つ、簡単な読み書きや挨拶ができるようになる5つ。

(小学校低学年)ひらがなやカタカナや数字を読み書きできるようになる6つ、数字の足し引きも出来て買い物ができるようになる7つ、年長者としてのふるまいを覚える8つ、親への口ごたえもいっちょ前になる9つ。

我が家では、お手伝いが当たり前になる10歳です。
お手伝いを当たり前とは思っていますが、私が100%であろうと努力しているのは「ありがとう」の声掛けです。

彼女は親から「ありがとう」を学ぶ機会は得られなかったのかも知れません。
しかし、学校では学ぶ機会があったのではないかと思うのです。
ただ、きちんと理解できていないのではないか、なぜ言うのか、何がありがたいのか、他人に当たり前のことは自分にも当たり前なのか。

人が飴をもらっていれば『なぜ私に飴をくれないのか』と云い、人が鞭を受けていれば『あぁ、私でなくて良かった』と云う。

愛する努力を怠った叔母を絶対悪として、親族(大人)が生活を保障するのは当たり前、当たり前のことをしているのだから感謝する必要は特にない。
コメント主さんにとっては、作中の少女が恩義を感じる必要はなく、義務化された恩恵に感謝する必要もなく、子どもなのだから愛され可愛がられるのが当たり前である。
そういうことでしょうか。
愛情あふれる養育には感謝するが、愛情のない養育には感謝の必要がないということでしょうか。
『結果的にもらえなかったことはない』と書かれています。
彼女は理不尽に課された義務であろうとも、一応は果たしているのです。
どれだけの人が親や周囲の大人から無条件に愛されて育ったのでしょう。
詳しい数字はわかりかねますが、虐待に至るものも含めて愛情不足を感じる子どもは多いと感じますし、愛情不足のまま大人になった親も多いでしょうから、負の連鎖は意外と身近なものです。

断ち切るきっかけが子どもからではいけないのでしょうか

『子どもは3歳までに親孝行を終える』とはよく言ったもので、子どもたちから無償の愛情を受けることで、私は親になりました。

そうでなければ、学校教育で言葉や態度のもつ可能性についてもっと教える授業があって良いのではないか…というのが前記事の要点です。
さらに言えば、りさり様のマンガで描かれた子どもが直接親権者に金銭を要求しなくてはいけない学校の集金制度に問題がある
義務教育の過程で、子どもに精神的苦痛や負担になる業務をさせているシステムに不満を言いたい。
手っ取り早いからと子どもを使っている学校運営や政府サイドに改善を求めたい。

少し脱線しましたが、他人を傷つける言動に関しては、いけないことだと思いますし、あってはならないことだと思います。
基本的には大人が礼節ある態度をとるべきであり、感情を抑えるべきであろうとは思います。
大人にとって子どもが守るべき対象であることは間違いないでしょう。
しかし、無償の愛はあるが、無償の愛を得ることも与えることも難しいことだと伝えることは、そんなにもいけないことでしょうか。
愛を得るための手段や方法を、子どもに教えることはいけないことでしょうか

大人の事情で預けられた子どもが大人の顔色をうかがってビクビクしなくても済むように。
どんな子どもだって、大人に守られ愛されて生きる権利があるのではないでしょうか。

実の子どもでさえ、少なからずとも親の顔色はうかがっていると思います。
少なくとも私と私の少ない友人はみな、親の機嫌や顔色をうかがいながら大人になりました。
最低限、空気を読んだり、TPOをわきまえることが出来るのはそういった子ども時代のおかげだと思っています。

自分の子だから可愛いのは当たり前⁈

いやいや、自分の子だから腹が立つことの多いこと多いこと!!
他人の子だと「元気があっていいねー」で終わるほとんどが、自分の子だと「なんで大人しく出来ないの!!」となります。
自分の半分以下の歳の子どもに怒りを覚えるなんてこと、自分にはないと思っていましたから本当にビックリしました。

テレビで見るワンパク小僧と、自宅を走り回るワンパク小僧を同じように取り扱いできる人間はどれだけいることでしょう。

親戚の子どもはどうでしょう。
多分、見知らぬ子より許せないことは増えるでしょう。
同じ状況に立たされた時、厄介ごとを押し付けられたと少しも思わない大人はどれだけいるのでしょうか。

愛せる自信がないから、優しくできる余裕がないから、と断ることの出来ない日本の親権制度にも問題があるのかも知れません。
しかし、親族に頼らずにすべての子どもを守る制度を作るためには莫大な予算がかかります。

すべての子どもに愛され守られる権利がある
=すべての子どもを愛し守らなければならない義務

その義務を果たせる大人はどれだけいるのでしょうか。
なによりどんな子どもでもすべてというハードルの高さ…

大人だって感情のある人間です。
感情に任せた言動をとってしまう大人はいないのでしょうか。
どれだけの大人が子ども時代に人の愛し方を学べたのでしょうか。
できない大人を非難することも、そこにある子どもに同情を寄せることも簡単ですが、解決法を考えてみてください。

大人に教育の場を与えるよりも、今教育の場を与えられている子どもに、
愛されやすい方法や味方を作る方法を学べる機会、自分や他人を守る方法を学べる機会、理不尽を受け流す方法必要に応じて抗う方法を学べる機会が、すべての子どもに与えられるシステムをプラスする方が現実的ではないか…という問題提起です。

親や大人にこうあるべきだと唱えても、どれだけの大人が応えらえるか疑問ですし、弱者の味方は聞こえが良いですが本当に相手のためになるのでしょうか。
私は弱者に「弱いんだから仕方ない」「私が守ってあげるから大丈夫」とは安易に言えません。
私の手の届く範囲はとても狭く、子ども達には戦う方法を教えてあげることしかできません。
ただ短いなりに社会を生きた身としては、生き方を知らない子ども(新成人)が多すぎる気がしているのです。
親や大人から無償の愛を受け取ることしか知らない子どもは、社会に出ても強く生きていけるのでしょうか。

私は子どもからの愛で生かされています。
子どもが先に愛や感謝を伝えることを学ぶことは、本当にいけないことでしょうか。
愛され守られることに権利を主張するとき、愛され守られたものの義務とはなんでしょう?
正直言って権利や義務という言葉を使うと、育児生活の楽しみが激減するので好ましくないのですが、愛される権利を主張するならば、やはり義務は派生し感謝や奉仕も当然となることでしょう。

個人的には権利や義務といった発言で、愛情や恩恵を当然のものに扱って欲しくないのです。

ないものを数えて未来に希望を託すことも必要でしょうが、子ども達には今あるものに感謝できる思考と、相手に伝える術を身につけて欲しい…学ぶ機会が与えられて欲しい…と願ってやみません。


追記:

なんだかんだ言ってもお金を出して、衣食住を保障してくれている叔母さんの『なんだかんだ言う』ところを責めるのではなく、『使ってくれているお金と時間』に感謝を伝えることで、少しは叔母さんの態度も緩和されて、少女が楽に生きられる日が増えるのではないか。

面と向かって嫌味を言ってくる叔母→自分の気持ちを正直に伝えてくれる人

表面的に良くしてくれる大人の方が多いものですが、現実的には子育てかかるお金はなかなかの大金です。
よほど金銭的余裕がない限り『今月もこんなにかかる』『将来的にはこれだけかかる』など、金銭的苦痛を感じては『どうして私が…』と思うこともあるでしょう。
言われず知らずに感謝しなかった子どもが、言われず知られず感謝されない親になる。

目に見えないところで使われていたお金と時間の大きを知らず、ただある生活には特に感謝することもなく、人にあって自分にないものばかりを数えた子ども時代。
子どもの頃に聞いたところで、どれほど寄り添えたかはわかりませんが『子ども時代に知っていた方が少しでも返せたんじゃないかなぁ』と思ったり、『もう少し仲の良い親子関係を築けたんじゃないかなぁ』と思ったりもするのです。

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