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幼稚園トイレ戦争

幼稚園の頃の子ども特有のこだわりというのは、どうしてあんなにささやかで切実でわがままなものなのか。
なんとなくそんなことを考えていた。

私が通っていた幼稚園の建物はある程度年季の入ったもので、幼児用の小さなお手洗いには洋式と和式の両方があった。
当時を思い出すと、幼稚園児として私たちはすでに「〇〇ちゃん一緒にお手洗い行こう」と言い合うくらいの社会性を持っていた。そしてこの洋式と和式のトイレをめぐっては、しばしば小さな小競り合いが起きていた。

幼稚園には一定数「私は洋式トイレじゃないとムリ」という女の子がいた。

子どもの、小さくてバランスを取るのが下手な体を想像してもらえば、
そして多くの家庭が家には洋式トイレを設置していることを考えれば、今となっては仕方ないような気がする。

しかし洋式トイレを使いたがる子が多ければ当然混むし、回転率が悪くなる。
幼稚園児はあんまりトイレの我慢ができない。洋式トイレの側には、「早く出て」「まだムリ」といった会話が日常茶飯事であった。

そんな中で多くの人が使いたがらない和式トイレを使える子は一定のアドバンテージを得ていた。空いている個室があって前の子が洋式トイレを待っているのであれば、和式の方にスッと入ることができる。

一方で、洋式じゃダメな陣営から和式を強要されることもあった。洋式と和式が両方空いている場合、後ろの子から「私は洋式じゃないとダメだから譲って」と言われるといった具合だ。

こうした洋式じゃないといけない子の存在は、ある一定の序列を生み出していた。
つまり、相対的に有難がられる洋式の価値は上がっており、ある種の特権になっていた。和式のお手洗いより洋式のお手洗いの方が、設置されたのが新しく綺麗であったし、なんとなく優雅であった。

そして「私は洋式じゃないとダメなの」と言うある種の不自由を主張することで彼女らは特権階級となっていた。それはたとえば、二十枚の敷布団と二十枚の羽布団の下にエンドウマメを隠された、あの王女さまのようなわがままさと高貴さを感じさせた。
洋式でないといけない子と和式も洋式も使える子の間には、「私にこの料理は口に合わないから」と下げさせる貴族と、その残り物を食べる召使いのような関係性があったのだ。

だから私は、洋式しか使わない子を譲り合いの精神に欠けていてお高くとまっており、和式トイレを使う練習もしないような怠け者だと思っていた。
和式を使うことの何がそんなに我慢ならないのかと不思議だった。
思い返すと、こうした社会的な小競り合いも幼稚園児の私たちの中にはすでにあったのだ。

今でも、和式を使えない人は一定数いると思う。
それはたとえば服装のせいでもあったりするが、たまに和式トイレが空いているのに入らない人が列の先頭に並んでいたりする。
そうした場合私たちは譲ったり譲られたり、もしくは前の人が「お先に」なんて言ってくれるのを待っている。けれど先頭の人の立場からすれば、後ろの人もまた洋式トイレでないとダメな可能性がある。だからそうした場合はやっぱり和式トイレでも大丈夫な側が譲歩して「入られないんですか」と声をかけなければいけない。

少なくともみんな大人になっているから、「私は洋式じゃないとダメだから譲りなさい」なんて言わない。慎み深さを身につけている。けれど、まだどこかでエンドウマメの王女さまのままなところがある。
そういう人を見つけると、ちょっと嬉しくなる。
幼稚園以来会えていなかった「洋式じゃないとムリ」なお姫様。
「ここにいたのね、」と思う。

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